大阪市営地下鉄御堂筋線「動物園前」駅から住宅密集地を通って南へ7~8分、谷町線「阿倍野」駅からは再開発のマンション群を抜けて西へ8~9分程度。間口の狭い「料亭」が建ち並ぶ一角があります。そこが飛田新地、住所は大阪市西成区山王です。

たった百年、でも濃ゆい歴史

大阪の人ならば名前は聞いた事があるでしょうが、実際に足を運んだ事のある方、ましてやその歴史まで知る方は少ないでしょう。この飛田新地の小さな一角、たかだか百年程の歴史しかないのですが、大阪の街を象徴する様な、濃い歴史が有るのです。

この街が遊郭として指定されたのは1916年(大正5年)。当時大阪には合計6ヶ所の色街があったので、飛田新地は最新の遊郭だったわけです。当時の色街の多くは、現在では住宅地や商業地となっており、一部を除き往時の面影はありませんが、飛田新地は現在でもその姿をとどめています。ちなみに「北の新地」といわれる曽根崎新地は、6つの色街の一つでした。

大大阪と「日本一の色街」

当時の大阪は、第1次世界大戦後の好景気、関東大震災後の首都圏からの人口流入、大阪市の市域の拡大等が相まって「東京をしのぐ日本最大にして世界第六位の大都市となり、昭和初期まで『大大阪(だいおおさか)』と呼ばれ」ていました。

その頃、飛田新地は最盛期を迎えます。1936年(昭和11年)には遊客数150万人強!なにせ当時の本では心斎橋、九條(現材は九条)につぐ賑わいと記されており、貸座敷業としての規模も日本一だったと推測されます。

戦争に突入し、大阪の街は大阪大空襲など幾度にも渡る空襲をうけて焼け野原となりますが、ここ飛田新地は奇跡的に焼け残ります。戦後、公娼制度は廃止となりますが従前の遊郭は黙認され、「貸座敷も、接待所、カフェー、料亭等に看板を変え」て飛田も営業を続けます。飛田、そしてその周辺には数十軒のカフェー(ホステスが客に酒を提供する、キャバレーの原型)が並び活況を呈しました。

その後1956年(昭和31年)、売春防止法が公布されます。ザル法と揶揄される同法ですが、この法律により飛田新地は「やってはいけない事」をしている街となってしまったのです。しかし、それで街はどう変わったかというと合法時代と何ら変わらない状態。逆に「高度経済成長期の繁盛が半端ではなかった」ために「アホほど儲かった」店も多かったそうです。

取材記事に迫力有り!

と、ここまで、本書の記述に基づき高度経済成長期までの飛田新地の歴史をかいつまんでご紹介しました(これ以降は本書をごらんあれ)。本書の中ではこの内容を、著者が十年以上かけ関係者や住民から丹念に取材した生々しいエピソードを基に書かれています。ハードカバー約300ページのボリュームでしたが吸い込まれるように一気に読み終えました。

飛田新地は特別な場所であり、どこでもこのような経緯を持っているわけではありません。いや、ここまで数奇な歴史を持つ街は他には無いでしょう。そんな街なのに、大変多くの方への取材をしなければその姿を書物に出来なかったという事実。さらっと見ているだけじゃ街の持つ魅力なんてわかるわけないな、とあらためて考えさせられた一冊でした。

飛田新地がどんな街か気になります?そんな方は「鯛よし百番」へどうぞ。雰囲気だけは十分に味わえますよ。

 





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