「第二章 日本発見 1940-1946」
1940年、日本の坂倉から「日本への招聘」に関する手紙が届き、ドイツのよるパリ陥落の翌日、マルセイユから「白山丸」にて日本へ向かう。当時この白山丸には、パリの画壇で活躍していた荻須高徳や岡本太郎らを含む日本人40名が乗船していたという。商工省の招聘で、おそよ7ヶ月という短い期間、ペリアンは精力的に日本中を駆け巡る。
1929年の世界恐慌以降、日本の貿易収支は慢性的な赤字が続く中、何んとか輸出拡大(外貨を稼ぐ)に望を託す当時の商工省は外国からデザイン指導者を招いたのです。言わば、日本の工芸品のブラッシュアップにデザイン振興策をとったわけです。外国人指導者の月給が当時の大臣よりも高額と言われ、商工省が期待度の高さが伺われます。
昨今の「クールジャパン、メイドインジャパン」策も同様ですが、当時のレベルからするとウエイトの掛け方が違いますね。やはり、当時は「国策のレベルのデザイン振興」であったということです。こうして見るとバブル以降の失われた20年の日本、今こそ当時のような振興策が必要ですね、デザインの振興策が。
「第二章 日本発見 1940-1946」 会場風景 手前はシャルロット・ペリアン「竹製シェーズ・ロング/寝椅子」 奥は、シャルロット・ペリアン「ベンチと規格テーブルシリーズの組合せ/メアンドル」 (c)NAO
● 画像をクリックすると拡大します。
さて、この第二章では、日本の民芸運動に影響されたペリアンの家具やスケッチなどの資料が数多く展示されています。「日本」の文化や習慣、風土が産出した「かたち」は、ペリアンにとってとても新鮮に映ったのでしょう。こうして展示してあるモノやコトを見るとあらためて日本人に生まれてよかったぁ……と感じますね。もちろん現代人の目にも同様に「新鮮」です。
さて、およそ7ヶ月という短い時間で「ペリアン女史 日本創作作品展覧会 2601年住宅内部設備への一示唆 選択 伝統 創造」展を開催しました。
ル・コルビュジエのアトリエで出会った坂倉準三、柳宗悦、河井寛次郎など建築家・工芸家との出会いがあったからこそこの展覧会が実ったのです。また柳宗悦と日本各地を回り、工芸指導を精力的にこなしたのです。
さて続編【保存版】シャルロット・ペリアンと日本 (2/2)では展覧会「第三章 戦後/日本との再会」をご紹介します。
……………………………………………………………………………………………………
今回の関連リンク
→神奈川県立近代美術館
■ 「シャルロット・ペリアンと日本」展
今後の開催予定
広島市現代美術館 2012年1月21日(土)~3月11日(日)
目黒区美術館 2012年4月14日(土)~6月10日(日)
・暮らしのデザインメールマガジン「ファニマガ」登録(無料)はこちらから!
★ガイドのエピソードが満載のインタビューはこちらから!
☆掲載の記事・写真・イラストなど、すべてのコンテンツの無断複写・転載・公衆送信等を禁じます。
Copyright(c) 2012 イシカワデザイン事務所 (ISHIKAWA DESIGN OFFICE) All rights reserved