「彫刻」というメディアを使ったライブ
展覧会っていうのは生ものなんで、ライブですから、足を運ばなかったら、永久に出会うことがない何かがあると思うんです。カタログとか付随して残るのは報告書というだけで、情報だけ得て満足するのは、あるひとつの体験するという事項を逃してしまう。実際に足を運ぶことで、自分の知らんものと出会えるきっかけになるかもしれんし、僕はライブ感を大事に考えているつもりではあります。そこで見せるものについて、意図的にスタイリッシュであることを外す作家もいますが、日本で彫刻なんて言ったらマイナーもマイナー。ドマイナーですよ。これをどうやって押し上げるかっていうときに、僕が土着的でべたべたなもんをそのまんま押し上げてもあまり興味をもってくれないですよ。国内での彫刻は今までスタイリッシュにまとめこめなかった歴史が長過ぎるとは思います。
自作でいえば毒を持っている動物が派手な彩色で誘き出すことと似た仕掛けを考えているので、その結果として見えるのかもしれません。また多くの優れたアーティストはスタイリッシュである事例も多いと思いますけどね。
森美術館「小谷元彦展:幽体の知覚」展示風景 2010/11/27-2011/02/27 撮影:木奥恵三 写真提供:森美術館
受け手が自分の階層を掘り下げていくこと
扱っているものが矯正器具だったり、骨だったり、血を想起させるものだったり、そこで「怖い」といのは単純かもしれませんね。表層の部分だけで怖いと思うのは感覚遮断を行い過ぎていて危ないと思ってしまいますが、でも、まあ、そういう人がいてもそれは仕方が無いのかもしれないです。不安や痛みを表現していると言われることもありますが、それだけで成立したら作品にならないです。彫刻メディアがなんだっていうと、昔だったら、石を彫っているうちに、それが倒れて死んだ奴もいるでしょう。ああいうメディアが持っている危険性っていうのは、人間の身体の問題も意識せざるを得なかったと思うんですよ。人間がつくるとか、存在をつくるとか、物質を触るっていうのは、認知学をはじめ、様々なことと密接な関係が張り巡らされていて、そのなかで作品ができています。
認知学の問題で痛みも出てくれば、存在があれば不安も出てくる。そこで階層を止めるのは危険なので、そこからさらに階層の深いところに導くようなことはしたいです。
ご自身は森美術館での個展、『小谷元彦展:幽体の知覚』をどのように見ているのでしょうか?>