2ページ目 【インドの脅威・民族の対立・軍政の歴史】
3ページ目 【アメリカの「最前線基地国家」としての歴史】
「イスラム教徒共同体」としての対インド政策
パキスタンが抱える2つの問題、すなわちインドの脅威と自国内の民族対立。 |
インドはその後も「膨張」を続けます。インドは1948年にハイデラバード(インド中部)を併合、1950年にはシッキム(中印国境付近)を保護領に(1975年併合)、1961年にゴア(旧ポルトガル領)を武力併合。
そして1971年の第3次印パ戦争では東パキスタンの独立にインドは手を貸し、バングラデシュとして独立させました。パキスタンからすると「東パキスタンも奪われた」わけです。
このようなことを考えると、インドの意図と反し「イスラム教徒共同体」として「分離独立」してきたパキスタンインドがを狙うと考え、パキスタンが自然とインドに敵意、過剰な防衛意識を持つのは必然かもしれません。
もっとも、これはあくまで支配層の意識であり、パキスタン国民のすべてがそのように思っているかどうかというと、そうではないのですが……。
ともかくも、こうしてパキスタンはインドに対する防衛を強化していき、最終的に核保有にまでたどり着いてしまいました。また、インドに対するけん制の意味から、早くからアメリカ、そして中国との良好な関係を構築するようになるのです。
「イスラム教徒国家」≠「イスラム国家」パキスタン
パキスタンの民族地図。異説が多いが、パンジャブ人が過半数ほどを占め、支配的な民族となっている。 |
パキスタンの建国者たちは西欧的な考えを持ったエリートであり、近代的な政教分離の考えを持っていました。彼らはイスラム教に基づいた政治をしようとしたのではなく、あくまで「民族としてのイスラム教徒の国家」を「ヒンドゥー教徒の国家インド」に対抗して作ろうとしたのです。
しかし「イスラム教」ではなく「イスラム教徒共同体」としてパキスタンをまとめていくことは、今のところ、あまりうまくいっていないということになると思われます。
まず、ベンガル地方に飛び地のようになっていた東パキスタンは、イスラム教徒としての団結よりも、ベンガル人としてのアイデンティティーの方を優先して独立運動を開始、パキスタン政府は弾圧しますが最終的にインドの介入により1971年独立をしてしまいます(第3次印パ戦争)。
現在のパキスタンも多民族国家です。しかし、建国当初のインドからやってきた指導者たち(ムハージル)や、その後の多数派民族パンジャブ人たちの支配は、他の民族の不満を招いています。
それは主に、支配層が推進してきた「ウルドゥ語公用語化政策」に反発する形で、各地の言語地域で反対運動が起こることになりました。特に最初の首都カラチを含むシンド州では、自治権拡大運動にまで発展しました。
「9.11」後のアフガニスタン空爆から後は、アメリカの空爆を支持するムシャラフ政権と、それに反発するペシャワール人の対立が尾を引いています。ペシャワール人はアフガニスタンの主要民族だからです。また、イスラム原理主義と政府との対立も深刻になっています。
「イスラム教徒の共同体」をパキスタンの理念とするなら、今のパキスタンは、イスラム教徒であることをもってしても「共同できない」状況であり、理念からは遠い状況にあるといえるでしょう。
建国期の混乱が軍政を招いたパキスタン
パキスタン軍政の歴史。建国からの半分の時代が軍政の時代となっている。 |
インドが、あのガンディーが暗殺された後も、有能な指導者であったネルーによって1964年まで統治され、民主制度の整備がおおむね順調になされたのに対し、パキスタンの建国期は波乱の連続でした。
パキスタン建国に力を尽くしたのは「ムスリム同盟」であり、その指導者としてパキスタンの初代総督となったのがジンナーでした。しかし彼が1948年に病死、ついで1951年に彼の片腕だったリヤーカト首相が暗殺されてしまうと、ムスリム同盟は急速に衰退していきました。
さらに第1次印パ戦争における混乱、カシミールの「喪失」。パキスタン政治はさらに混乱し、最初の憲法(1956年)ができるまで長い年月が経ってしまうほどでした。
この混乱を収めるべく、立ち上がったのは結局軍でした。1958年、国軍総司令官アユーブ・ハーンがクーデターを起こし、1969年までのあいだ軍政を敷くことになります。
その後も、ヤヒヤ・ハーン(1969年~73年)、ジウ・ハク(1977年~88年)、ムシャラフ(1999年~現在)と、ことあるごとにクーデターが起き、軍政がまるで伝統のように続いています。
しかし建国の混乱期はさておき、現在のパキスタンにおいてもなお軍政が敷かれる要因は何なのでしょう。次のページでみていくことにします。