2ページ目 【民族紛争とロシアの影】
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【民族紛争とロシアの影】
グルジア政治の混乱
グルジアの民族地図。アブハジア人、オセット人が分離独立をめざしている。矢印は紛争により難民として流出したグルジア人の流れを示す。 |
しかし、これはかえってアブハジアと南オセチアの分離主義を刺激してしまいます。グルジアは大きく混乱、91年末から92年はじめにかけてのクーデターによってガムサフルディアは失脚してしまいます。
ちなみにガムサフルディアは93年に死亡しました。自殺といわれています。しかし一部報道では一発の銃弾を受けた跡があったということですが、はたして……?
さて、クーデターによって全権を握った軍事評議会は、モスクワにいたシュワルナゼを大統領として招きました。ゴルバチョフ政権のもと、平和外交を繰り広げ世界的にも有名になった元外相です。
シュワルナゼはグルジアに戻って政治的リーダーとなり、1995年選挙によって正式に大統領に就任しました。しかも軍部の反対派も一掃し、彼は大きな権力を握ることになったのです。
アブハジア・南オセチアの分離とロシア
しかし、アブハジアと南オセチアの分離運動は止まりませんでした。そして、それをロシアが支援しました。ロシアは、まずカスピ海の原油ルートを確保することを考えました。ナショナリズムを高揚させ反ロシア傾向を強めるグルジアは、これにとって大きな弊害でした。ロシアはグルジアの勢力を弱めるため、アブハジア・南オセチアの分離独立運動に手を貸したのです。
アブハジアに関しては、黒海へのルート確保という問題もありました。ウクライナがロシアから離反する傾向が強まると、ロシアの黒海ルートは非常に狭まってしまいます。黒海に面するアブハジアは、ロシアの影響下においておく必要がありました。
グルジアの北方でのチェチェン紛争も激しくなっていました。ロシアは、紛争鎮圧を有利にすすめるため、チェチェンの周りを親ロシア地域でまとめる必要があったのです。
こうして、アブハジアは1993年に、南オセチアは1992年にそれぞれ事実上の独立を果たしました(ただし、国際的な承認は得ていません)。
アブハジア・南オセチアとは
アブハジア・南オセチアはそれぞれ独立の政府を樹立し、グルジアの統治権が及ばない状態になっている |
アブハジア人(アブハズ人)とグルジア人の違いはよくわからないところもあります。ただ、湿潤な西グルジアと、アブハジア人が多く住む乾燥した東グルジアは、それぞれ独自の文化を育んできたということがあります。イスラム教徒が多いのも特徴です。
それゆえ、アブハジアにはグルジアのようにソ連内共和国の地位が与えられるような動きもありましたが、結局グルジア内の自治共和国になってしまいました。このころから、アブハジア・ナショナリズムが徐々に芽生え始めたのだと考えられます。
南オセチアはオセット人が多数を占める地域です。北となりにあるロシアの北オセチア共和国への編入を求める声はソ連時代からあがっていました。このときにそれが処理されていたら、その後の紛争は起こらなかったかもしれませんが、今となっては仮定の話です。
オセット人はグルジア人などカフカス系民族ではなく、イラン系の民族であると考えられています。宗教はキリスト教が多数で、イスラム教も少数。このようなことから、彼らはグルジアではなく、北オセットとの合併を目指しているのです。ですから分離独立、というのとはまた少し違うのかもしれません。
しかし南北オセットの合併はすなわちグルジアの領土縮小、ロシアの領土拡大を意味します。今は紛争も小康状態ですが、合併が現実味を帯びてくると、また紛争が再燃することになるかもしれません。
★ここで見えてきたのがグルジアとロシアの関係です。ここにきてさらに悪化してきています。「バラ革命」から現在までのグルジアについて、次ページで見ていきます。