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自民党の歴史(12)野中広務の時代(2ページ目)

橋本政権が退陣した後の小渕・森政権は「自民党の策士」野中広務の時代でした。連立工作を成功させ、自民党を立て直そうとした野中の政治手法とは何だったのでしょう。

執筆者:辻 雅之

1ページ目 【自自連立、自公連立政権の発足】
2ページ目 【小渕倒れ、不人気森政権と「加藤の乱」】
3ページ目 【キングメーカー・野中の敗北と小泉の総裁選勝利】

【小渕倒れ、不人気森政権と「加藤の乱」】

「真空総理」小渕と重要法案の成立

さて、小渕政権下では実に多くの法案が処理されていきました。

外交面ではガイドライン関連法、特に周辺事態法の制定。「周辺事態」における有事の際のアメリカ軍への支援を法制化したこの法律は、後の「テロ特別措置法」「イラク特別措置法」「有事関連法」にもつながっていきます。

小泉政権になって本格化したといわれる日米の同盟緊密化ですが、すでに小渕政権の時に、その素地はできていたといえるでしょう。

内政面では、住民基本台帳法、国旗国歌法、通信傍受法などが相次いで制定されました。基本的人権を侵す、国家の右傾化を促進するなどと批判されましたが、自自公路線によってあっさりと成立されました。

このように、従来であれば「タブー」とされる領域であり、政局ともなりかねない法案を次々と通過させ、立法政策における「タブー」を大きく狭めることになったのも小渕政権から、ということができます。

しかし、小渕自体は第1派閥の領袖として権力こそ持つものの、確固たる理念を持った政治家ではありませんでした。「真空総理」とも揶揄された小渕の姿勢が、ある意味タブー的法案に柔軟に対応したとも言えるでしょう。

しかし、「総理は真空でもいい」という雰囲気が、その後の森政権の誕生へとつながっていった観は否定できません。

小沢自由党の政権離脱と小渕の重体

一方、小沢は苛立っていました。自民党が自由党との連立にあきたらず、公明党との連立に踏み切ったことは、自民党が自由党の関係を軽視するのではないかと警戒したのです。

小沢は、小渕に議員定数削減を強行に迫ります。2000年初頭、それは実現しましたが、小沢にとってそれは自民党の姿勢を試す一手にすぎませんでした。彼は「自自合流」を小渕自民党に迫ることになります。

「自自合流」は、いろんな意味で困難でした。1つは、所属議員が重複している選挙区でどちらを優先するかという調整の問題。そしてもう1つは、小沢の処遇についての問題でした。

小沢は、対等合併によって合流後の発言権を握ろうと考えていました。しかし、公明党という「頼もしいパートナー」を得た自民党には、無理な相談です。小沢と手を切って、公明党との関係を続けた方がいい。

2000年3月末、自由党の合流問題はきわめて微妙なかけひきへと発展しました。小沢は合流なしなら連立離脱を示唆。離脱か合流か、合流か離脱か……小沢は、巧みにカードを切り分けながら小渕に譲歩を迫ります。

このとき、北海道の有珠山が噴火をし小渕は首相として対応に終われていました。そのさなかの小沢との協議。4月初旬、丸一日小沢と協議した後、疲労した小渕は未明に入院。そのまま、官邸に帰ってくることはありませんでした(5月に死去)。

小沢自由党は連立離脱。しかし、小沢に反発した一部は連立に残留を決め、新たに「保守党」を結成することになります。

「5人組密談」が落とした森政権への影

小渕の重病情報を受けて、青木官房長官が首相の病状発表を行わないまま、青木・森・野中・亀井・村上の「5人組」による密談が始まりました。

後継として何名かの名前が上がっては消えるなか、村上が「森さんでいいのではないか」……本来「密談」であるはずのこの会談の詳細を漏らしたのは、森後継を決定したのが自分であることをアピールしたい村上だったともいわれています。

森で納得したのは、公明党との関係重視だったという声もあります。森は小渕自民党の幹事長。発足したばかりの公明党との連立政権を維持するアピールのために必要な人材は森しかいなかった、ということです。

いずれにせよ、自民党執行部は「緊急措置」としてこの密談での結果を党全体が呑むように迫ります。こうして、森が後継総裁として決定。森政権の発足。

しかし「密談での後継決定」は非民主的であるとして、自民党は批判にさらされます。森政権はいきなり「非民主的」というレッテルを貼られてスタートせざるを得ませんでした。

森がこのことを詳細に認識していれば、あの「神の国発言」は起こらなかったかもしれません。「日本は天皇を中心とする神の国」という発言は、「森政権は非民主的」というレッテルを決定的なものにしてしまいます。

こうした状況で、森政権は6月の総選挙に臨みました。結果は単独過半数には届かない233議席。それでも、公明党との連立関係によって、森政権は存続しました。

なお、この選挙の前に経世会オーナー・竹下登元首相が死去。橋本派となった「経世会(このときにはすでに平成研究会と改称)」の屋台骨を支えるのは、野中ただ1人となっていました。

「加藤の乱」を鎮圧する野中

野中は、幹事長として森を支えてきました。「神の国発言」から吹き荒れる「森おろし」を静めながら。しかし、中川秀直官房長官の女性スキャンダルでの辞任(後任は福田康夫)、株価や景気の低迷、続く森の失言……。

こうしたなか、99年の総裁選以後非主流派に転じていた加藤が、山崎と組んで野党提出の内閣不信任案に賛成しようとしました。いわゆる「加藤の乱」です。

野中は猛然と鎮圧に乗り出しました。加藤を「反乱者」と言い放ち、加藤派の切り崩しにかかりました。……小選挙区制では、自民党から追放されることはかなりの痛手です。結局、加藤の計画は失敗、「涙の断念会見」となりました。加藤派は分裂し、多くは堀内光雄と古賀が率いる堀内派に移りました。

しかし、野中はこの直後幹事長を辞任します。この理由についてはさまざまいわれていますが、一番の理由は、この機会に「まな弟子」古賀を幹事長に据え、自公連立路線の定着を図ろうとしたため、ではないかとおもわれます。

しかし、野中においそれと「隠居」する暇など、ありませんでした。……そしてこの「加藤の乱」でも、小泉は自身を「温存」していました。

剛腕"
「加藤の乱」鎮圧……野中の剛腕は大きな威力を発揮した

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