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「国対委員長」と国対政治・基礎知識(2ページ目)

何かと話題のポストになった国対委員長。国対委員長というポストと国対政治は、日本の国会制度・政治を大きく象徴するものだといわれています。その割には知らないことが多いこのことについての基礎知識。

執筆者:辻 雅之

1ページ目 【政党の国会運営戦略の中核となる重要機関「国会対策委員会」】
2ページ目 【議院運営委員会は「出先機関」、本国は「国会対策委員会」】
3ページ目 【不透明な日本の「国対政治」の内容、そしてこれからの展望は?】

【議院運営委員会は「出先機関」、本国は「国会対策委員会」】

国会運営では幹事長より国対委員長の権限が上?

無論、国会運営の第一責任者は幹事長です。党首は選挙に向けての顔、そして首相候補であり、政党内部の実質上責任者は幹事長です。

政党内部、ですから、幹事長のやることは国会運営だけではありません。党内の意見調整、選挙対策、地方の選挙対策……こうしたことがあるため、ついつい国会運営を国対委員長に任せてしまう傾向があるようです。

もっとも、明確な線引きがあるわけではないので、幹事長がどこまで国会運営を任せてしまわなければいけないのかはその幹事長の個人的能力にある、ということになってしまうでしょう。有能な幹事長であれば、激務の中でも国会運営に携わることはできるわけで、実際そういう幹事長は少なからずいたわけです。

「本国」国対委員会の「出先」扱い、議院運営委員会

国対委員会
正式機関である議員運営委員会はあくまで「出先」、実際には国対委員会の間の交渉でほとんど決まっている
さて議長ですが、1人で議事運営のことをいろいろ決めるのは大変です。そのため国会法で議院運営委員会が衆参各員に設置されていて、ここが議長の議事進行を助ける正式機関となっています。

しかし、この議院運営委員会がほとんど「形だけ」になっているのが実情である、といわれています。実際には政党間の国対委員会交渉で議事進行は決まっていて、議院運営委員会はそれを正式なものにする「手続機関」にすぎなくなっている、というのです。

永田町では、国対委員会を「本国」、議院運営委員会を「出先」と呼ばれているといいます。議事進行や運営はあくまで各党の国対委員会が決定していることを象徴している言葉といえます。

議院運営委員会のはじまりと形式化への道

戦前の明治憲法システムは当初、政党の存在を前提としていませんでしたから、議長がもっぱら議事運営を管理していました。

しかし、政党政治の進展とともに、1904年衆議院に会派協議会が作られました。1939年には会派交渉会と改名され、規則が制定され議事運営に関する公式機関となりました。

戦後まもなく、議院運営委員会が国会の常任委員会として設置されますが、同時に会派交渉会も開かれていました。日本占領にあたっていたGHQは会派交渉会を廃止させ、議事運営機関は議院運営委員会に一本化されました。

しかし、その後公的な場で議事運営を行うことに対して、有力政党が抵抗を見せるようになったため、次第に実質的なことは議院運営委員会の理事会で、さらには非公式の理事懇談会などで決められるようになり、いつしか議院運営委員会とは別の国対委員会の交渉にその場は移っていくようになったのです。

こうして、議事運営についての論議は、正式な会議録が残る議院運営委員会から、まったく残らない国対委員会交渉へと移っていったのでした。

ちなみに、常任委員会で議事運営に関することを話し合うのはアメリカ議会の特徴です。ドイツ・フランスなどは独立した機関で議事運営を話し合います。

「国対政治」の成立

アリーナ型議会
有斐閣アルマ『政治過程論』をもとに図解。どちらも一長一短あるのだが、日本の国会はどちらの要素もあり、それが独特な「国対政治」を生み出しているという指摘もある
イギリス議会では非公式協議でしか議事運営を話し合う場がありません。その点では、日本と共通しています。

しかし、長年にわたって自民党が政権を握ってきた日本と比べ、たえず政権交代の可能性のあるイギリス。議会は次の選挙に向けて政党が対決姿勢をアピールする「アリーナ型議会」であり(政治学者ポルズビーの考えた言葉)、妥協した議事運営を行うことは戦略上からいって上手い方法ではありません。

その点、〔万年与党=自民党、万年野党=社会党〕という図式を中心に廻っていた1993年までのいわゆる「55年体制」では、自民党の法案に対して社会党など野党が国民に向けて一定の抵抗を示した後、自民党との非公式かつ密室的な国対委員会交渉で、妥協が図られてきた面があるといわれています。

このように、単なる議事運営だけでなく、法律案通過なども国対委員会の交渉で事実上決定していた図式の政治のことを、ふつう「国対政治」といいます。

自民党の政権が反永久化し、政治に緊張がないために生じた「国対政治=議会政治の談合」という批判は、55年体制後半、特に高まりました。この批判が、1993年の55年体制崩壊(自民党一党政権の崩壊)の原動力の1つになったと言えるでしょう。

野党に国から裏金が支給されていた?

55年体制の中での国対政治は、その緊張感に欠ける政治システムという点だけでなく、「野党が与党に妥協していた」「野党が与党との談合を了解していた」という点で、さらに批判されていました。

そこでよくいわれていたのが、「政府と与党の国対が一体となった『野党対策』」の存在でした。

野党は55年体制の中、与党からせんべつ、さらには現金といったものを「対策費」として受けとり、事実上自民党の支配を支えていたというのです。

それに使用された資金が、その使い道を会計検査院などにも公表する必要のない「内閣官房報賞費」、別名「機密費」であった、といわれています。

実際どうだったのでしょうか。次のページで見ていきましょう。
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