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英雄か悪魔か?シャロンという人物(2ページ目)

イスラエル・シャロン首相の病状についてのニュースが続いていますが、なぜ彼はそれほどまでに注目されるのか?それは、彼のこれまでの生涯をみていくとわかってきます。

執筆者:辻 雅之

1ページ目 【軍人として「国民的英雄」に上り詰め、そして右派政治家へ】
2ページ目 【今もなお国内外の議論の的……国防相シャロンのレバノン侵攻】
3ページ目 【21世紀になってつかんだ政権の座……超リアリズム的なその政策】

【今もなお国内外の議論の的……国防相シャロンのレバノン侵攻】

急いでエジプトの入植地を片付けはじめたシャロン

・1981年 第2次ベギン内閣、国防相に就任
・1982年4月 占領地シナイ半島の入植地解体
・同年6月 「ガラリヤ平和作戦」を実行、南レバノンのPLO拠点攻撃開始
・同年8月 イスラエル軍ベイルート包囲、猛攻撃(「暗黒の木曜日」
・同年9月 ベイルート近くのパレスチナ難民キャンプで虐殺事件 イスラエル軍の間接的関与指摘され、国際世論沸騰

1981年に国防相に就任したシャロンは、まず占領していたシナイ半島のユダヤ人入植地の解体に着手、実行します。

1979年、アメリカを仲介してイスラエルとエジプトが平和条約を締結しました。アラブ諸国とイスラエルとの平和条約締結は初めての出来事でした。そしてそのため、ガザを除くエジプトからの占領地を返還することになり、入植地の解体・撤退が必要になったのです。

最初は大きな反発があったものの、この入植地解体は結果的にスムーズに行われました。……しかし、農相時代、入植地建設を推進していたシャロンが、逆に入植地解体を実行したことは、皮肉なのか何なのか。

シャロンはここでも、超現実主義的アプローチを披露した、と考えたほうがいいのかもしれません。

レバノン侵攻の開始、ベイルート掃討戦

イスラエル周辺地図
PLO勢力が根付き、かつ敵国シリアが狙うレバノンを「確保」しておくことが、ベギンとシャロンにとっては重要なことだった。南のエジプトと和平が確立していたこともシャロンには好都合だった。
そして、ベギン内閣は北の隣国レバノンに本拠地を置くPLO(パレスチナ解放機構)に壊滅的打撃を与えようと考えます。

当時、アラファト率いるPLOのゲリラ活動はイスラエルの悩みの種だったので、PLOを潰すため、純粋アラブ国とは必ずしもいえない(キリスト教徒なども多い)レバノンを侵攻することになったのでした。

そして、その作戦の中心となったのが、もちろん国防相シャロンでした。

そして、ベギンやシャロンはレバノンからPLOを追い出すだけで満足しようとは考えませんでした。同じようにレバノンに干渉しようとする第1次中東戦争からの宿敵シリアの野望をくじくため、レバノンに親イスラエル政権を樹立する、ということまで考え、実行されました。

そのため、南レバノンのPLO拠点が壊滅した後もイスラエル軍は進撃を続け、レバノンの首都ベイルートに迫ります。そして猛攻撃。最新兵器が使われ、パレスチナ人だけでなくレバノン人も殺害されていきました。こうしてかつて「中東のジュネーブ」と呼ばれたベイルートは1ヶ月で廃墟と化したのです。

こうしてイスラエルは(アメリカの仲介でPLO議長アラファトを国外追放した後)親イスラエル政党であるファランジスト党(キリスト教勢力、民兵組織も保持)のゲマイエルをレバノン大統領に就任させます。ベギンとシャロンの作戦は成功したかに見えました。

しかし、ゲマイエル大統領はあっけなく爆殺。その後、ベイルート近辺のパレスチナ難民キャンプ、サブラ・シャティーラで大虐殺が起こってしまったのです。

「難民キャンプ大虐殺」で失脚したシャロン

難民キャンプの虐殺を直接行ったのは、「復讐」に燃えるファンランジスト党の民兵たちでした(もっとも、ゲマイエルの殺害はレバノン人であったことがわかっています)。女性や子ども、幼児まで根こそぎ殺害されました(1000人前後が殺害されたとみられています)。

イスラエルに非難が集まったのは、この虐殺にイスラエル軍が関与したという疑惑からです。

イスラエル軍はキャンプへの通路を封鎖していました。一説では武器や重機(重機は死体を埋めるため)を供与していたとも言いますが、定かではありません。

さすがに、この事件は国際世論の沸騰を招いただけでなく、イスラエル国民の反発をも買いました。ベギン政権は調査委員会を設けて対応しますが、結局シャロンの失脚ではすまず、ベギン政権の崩壊につながっていきます。

しかしながら、左派労働党の勢力回復もそれほどならず、少数政党もたくさん出現する中、イスラエル政局はしばらく流動化することになります。

湾岸戦争と労働党政権の和平工作

こうした流動化に終止符をうったのが湾岸戦争でした。

ミサイルを打ち込まれるなどして湾岸戦争に巻き込まれたイスラエルは、アメリカが仲介する中東和平プロセスに傾く労働党への支持を集め、1992年ラビンが首相に返り咲き労働党中心政権が発足します。

これには1987年から巻き起こったパレスチナ人によるインティファーダ(民衆蜂起の意味。PLOなどの組織によらない自主的なレジスタンス運動をいう)に対する国民の厭戦感も、背景にあったと思われます。

こうしてPLOとのオスロ合意のもと、パレスチナ暫定自治発足へ(93年)。94年にはヨルダンとイスラエルとの平和条約も締結され、中東和平は進展していくかに見えました。

しかし、95年、ラビン首相がイスラエル人の極右青年により暗殺。和平プロセスは暗雲立ち込めはじめます。そしてここから、雌伏していたシャロンがまた活躍し始めるのでした。
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