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自民党の歴史 田中の「死」・中曽根裁定

ロッキード事件で有罪判決を受けながらも派閥を膨張させ、その権勢を見せ付けた田中角栄。しかし、思わぬところからの「反乱」そして「政治生命の終わり」へ。

執筆者:辻 雅之

(2005.10.13)

ロッキード事件で有罪判決が出てもなお膨張する田中派の姿は、田中角栄の絶大な権力の象徴でもありました。しかし、その膨張が、やがて自壊を招くことに……。そして中曽根と「ニューリーダー」の時代、80年代中盤を見ていきます。

1ページ目 【ロッキード解散・幻の「二階堂擁立劇」=田中権力の絶頂】
2ページ目 【竹下クーデタ「創世会」の旗上げと田中の「政治的な死」】
3ページ目 【絶頂・中曽根から「ニューリーダー」たちへの「権力譲渡」】

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【ロッキード解散・幻の「二階堂擁立劇」=田中権力の絶頂】

「ロッキード解散」による敗北と連立政権

1983年10月12日、東京地裁はいわゆる「ロッキード事件」において受託収賄罪に問われていた元首相・田中角栄に対し、懲役4年という実刑判決を下しました。

これにともない国会は空転、野党は田中辞職決議案を提出。世論も田中引退に傾きます。しかし一方田中は、このような「所感」を発表し政界引退論を一蹴しました。

……私は内閣総理大臣の職にあった者として、その名誉と権威を守り抜くために、今後とも不退転の決意で戦い抜く。……

首相・中曽根康弘は窮地に追い込まれます。すでに、のちに三公社(旧国鉄・電電・専売)民営化などにつながる行政改革に着手、外交面でもレーガン大統領との良好な日米関係を保っている中曽根にとって、このタイミングでいちばん避けたかったのは、自身の進退につながりかねない衆院解散でした。

しかし、野党が提出した田中辞職決議案の審議を阻止したい二階堂進幹事長ら田中派幹部は衆院解散を画策。国会は1月あまり空転した後、議長あっせんなどもあり、中曽根はやむなく衆院解散します。

結果はやはり敗北であり(250議席)、中曽根は新自由クラブとの連立政権を組んで乗り切ります。福田赳夫ら反主流派は反対しますが、執行部から「いわゆる田中氏の政治的影響力を排除する」という方針が出され、なんとか落ち着くことになります。

鈴木前首相が抱きはじめた中曽根=田中ラインへの「反感」

さて、この連立工作に尽力したのが鈴木派の田中六助でした。彼はそれにより幹事長に就任しますが、これが鈴木派に大きな波紋を投げかけることになります。

つまり、鈴木派の次代のホープであり、領袖・鈴木善幸前首相の意中の後継は宮沢喜一でした。しかし、中曽根はあえて宮沢のライバルである田中(六)を幹事長に据えたからです。

※もっとも田中六助は85年に急死。鈴木派の後継者争いはあっけなく終了しました。

そして、衆院選で鈴木派が12人減となったのに比べ、田中派は2のみの減。そしてあいかわらずの田中派重用の「角影」内閣。「党内融和」を主張してきた鈴木が、中曽根に対して大きく反感を持ったのは、いうまでもありません。

そして、元来田中派との盟友関係にあった宏池会=鈴木派ですが、ここにきて、反中曽根にむけて、反田中である福田派・河本派と接近するようになっていきます。

その騒動が「二階堂擁立劇」でした。そしてその失敗が、田中の権力の大きさを物語る最後のエピソードになるのでした。

本格化する「中曽根おろし=二階堂擁立劇」

鈴木・福田・河本敏夫にとって、「中曽根おろし→二階堂擁立」は、それぞれの思惑にあう構想でした。

鈴木は、派閥均衡を崩すつもりはありませんでした。むしろ乱しているのが中曽根だと考えていました。しかし、後継となるとだれか。宮沢にしろ、福田派のホープ安倍晋太郎にしても、まだ時期が早い(と彼は考えます)。

であれば、最大派閥である田中派のナンバー2・二階堂を擁立し、中曽根を降ろしたほうが、逆説的ですが、かえって派閥均衡と党内融和は実現する……これが鈴木の考えでした。

そして反主流派の福田・河本は、二階堂の擁立により、鉄のように堅い中曽根・田中派勢力が分断されることを期待していました。

ではもし、首相指名選挙でかつての大平・福田が争ったように、中曽根・二階堂の争いという異常事態になったらどうするか。鈴木と福田は、公明党と民社党に手を廻していました。

従来の社会党よりの革新中道路線から、右よりの純粋中道路線に脱皮したい両党とも、そのきっかけとして、二階堂擁立支持に動こうとしていました。

「二階堂擁立」の失敗と田中派の「静かな反乱のきざし」

この動きは、84年に控えていた総裁公選をにらんだ動きでもありました。「田中依存体制」以外は相変わらず支持率の高い中曽根を、田中は引き続き「操縦」していくつもりでいました。

こうしたなか、二階堂はしぶしぶながら「党内融和」の考えの下で、ということで鈴木らの総裁立候補の要請を受諾。鈴木は田中の元を訪れ、二階堂擁立を持ち出します。

しかし、自分の権力が弱まることになりかねない二階堂擁立を、田中が飲むことはありませんでした。二階堂自身も田中と話し合いましたが、田中は首を縦に振りません。

二階堂擁立劇は結局、「田中が首を縦に振らない」ただそれだけのことで崩壊しました。田中の絶大な権力をまさに物語る事件として、終わってしまいました。結局、中曽根が田中の支援のもと無風で再選。

このようななか、田中派の若手たちは、二階堂やそれをめぐる鈴木、福田という長老たちの動きに不快感を示す一方で、かつ、二階堂の行動を不問に処し、自らの権力にしがみつく田中に対しても反発し、次第に距離を置くようになっていきます。

こうして生まれたのが「創世会」でした。

◎東京地裁を見上げて……元宰相・田中はその日、何を思ったか


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