2ページ目 【ロッキード事件と田中=大平・福田の微妙な動き】
3ページ目 【三木退陣……しかし思うように得点が伸ばせない宰相・福田】
【三木退陣……しかし思うように得点が伸ばせない宰相・福田】
衆院解散の道を選ばなかった古典的政治家・三木
三木は、臨時国会で虚をついて解散に持ち込む手もありました。30年も早い「サプライズ解散」です。これによって、たとえ分裂しても、過半数とまでは行かなくても、親三木派だった中曽根派や他の中間派をとりこみ第1党を維持できる可能性はなかったとはいえないでしょう。実際、河野一郎の息子、河野洋平ら6人が自民党から脱党して11月の衆院選に臨んだ新自由クラブは、17名の当選を果たしました。およそ3倍。
しかし、三木はなぜか「混迷する経済への対処」を優先します。長老政治家としての自負があったのでしょうか。もしくは、よもや福田と田中の盟友・大平が決定的に提携できるとは思わなかったのでしょうか。
敵の敵は味方……田中が黙認した大平=福田連携
しかし、屈辱の独房生活から2億円を積んで政界に戻ってきた田中は、「闇将軍」として自民党の外から、大平を操縦していくことになります。田中は、打倒三木のためには、福田総理も容認する構えでした。かくして総選挙間近の10月、「大福連携」が誕生したのでした。つまり、
・首相は福田、幹事長は大平とする
・総裁任期を3年から2年に短縮する
という密約を、品川のホテルで、保利茂・鈴木善幸・園田直立会いのもと、両者は交わしたのでした。
こうして、三木への対抗軸が完成しました。解散の時期を逸した三木は、もはや11月の衆議院任期満了選挙を待つのみとなりました。
三木退陣、満を持して登場した福田赳夫政権
こうして行われた76年選挙は、自民党史上かつてない敗北となりました。22議席減の249。もっとも、総議席は定数問題で20増えていました。社会党はやや増、共産半減、勝利したのは公明党と民社党、そして新自由クラブでした。こうして三木の時代は終わりました。そして衆議院も自民党がわずか1議席のみ上回るという、本格的な保革伯仲状態になりました。これがもし小選挙区制の時代ならば、政界再編が起こっていたかもしれません。
ともあれ、大福連携の通り、福田首相・大平幹事長体制が確立。いよいよ、「プリンス」福田が、政界の頂点を極めることになったのです。
福田→大平政権禅譲は実行されるのか?
さて、例の「大福密約」ですが、このくだりは、どう解釈したらいいのでしょう。「総裁任期を3年から2年に短縮する」。これは大平にとっては、福田が2年後、大平に政権を禅譲することを約束したものとして受け取られました。福田も、当初はやむなし、と思っていたかもしれません。
しかし、政策通の福田がもぎとった念願の政権、そうそう渡すわけにはいきません。それは、やがて「第2次角福戦争」として火を噴くことになります。
福田の首を絞めることになった「自民党改革」
そして福田は2つの自民党改革を実行します。1つは三木が唱えていた党員参加の予備選であり、もう1つは派閥の解消です。岸・佐藤の直系であり、どちらかといえば権力闘争を好まない古風な福田は、これを率先して行います。しかし、田中と大平の派閥は、表向き解消したものの、温存されていました。
そして予備選の導入です。これが、福田にとってはおおきな「凶」と出てしまうことになります。当人は、そのことをこの時点ではわかってはいませんが……。
得意の経済は今ひとつ、外交で得点稼ぎに出た福田
そして彼は、本筋の経済よりも、外交のほうに力を入れ始めます。日本の非軍事大国化、東南アジアとの相互信頼などをうたった「福田ドクトリン」は好評でした。また、1978年には念願の日中平和友好条約の締結にこぎつけます。親台湾派であるはずの福田でしたが、ここは中国の要求をのみ、またそれを他の親台湾派にものませることで、スムーズにことを運ぶことができました。
しかし、自信の経済分野では、欧米諸国ほどではないものの、不況から脱することはできずにいました。それは、77年の参院選の結果が芳しくなかったことにも現れていました。
こうして、福田の政権は期待よりは今ひとつぱっとしないまま、時の流れは初の総裁予備選を含む総裁選へと移っていくのでした。
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