2ページ目 【「決断と行動」田中の華々しい勝利と国民的人気、それを襲った「狂乱物価」】
3ページ目 【「コンピュータつきブルドーザー」の挫折……田中政権とは何だったのか】
金権選挙と福田の田中批判
田中の74年の参院選は苦しいものになりました。このような経済状況の中でなにが頼りになるのか。……やはり、それは「カネ」でした。かくして企業ぐるみの文字通り「金権選挙」となった参院選。しかし自民はぎりぎり、辛うじて過半数。革新政党(当時は社会・民社・公明・共産)との議席差は7議席にまで迫ります。
ここから始まるのが、70年代の国会を象徴する言葉「保革伯仲」、つまり自民党議席が革新勢力に近づいていくことによって、自民党一党支配体制がが大きく揺らいでいることにを示した言葉に表される現象の始まりでした。
そしてこの「5当3落(5億の資金があれば当選、3億なら落選という意味)」とまでいわれた極限の「金権選挙」を、福田らは猛然と追求します。
次第に、そう、あの記事が出る以前から、反田中派は田中の「金権」を糾弾していました。もちろん、思惑はいろいろあったと思いますが。
文藝春秋の『田中角栄研究』と金脈疑惑
さて、月刊誌・文藝春秋は立花隆が中心として書いた、田中の「金脈」を白日のもとにさらす『田中角栄研究』を、10月発売の号に掲載します。それは緻密な記事であり、それだけの記事を書くためには当然大掛かりな取材をしているわけで、数カ月も前からそれは自民党幹部の耳に入ってきていました。
田中は圧力をかけますが、結局発売。しかし、当初はマスコミが騒ぐこともなく、田中はほっと一息。
ただ、アメリカ有力紙『ニューヨークタイムズ』『ワシントンポスト』などはこれを取り上げます。海外マスメディアの目は明らかに田中の「金脈疑惑」に目を向けはじめました。
そして、その後の外国人記者クラブの記者会見に出席した田中の姿がいやおうなくマスコミから国民の目にさらされることになって、情勢は一変します。
『田中角栄研究』に基づいた外国人記者たちの呵責ない質問に対し、田中は何度も、答えに窮してしまったからです。
こうして「金脈疑惑」が田中に持ち上がり、田中はいよいよ窮地に追い込まれはじめたのです。
田中の退陣と「フォード大統領訪日」
田中は、これを外遊と内閣改造で乗り切ろうとしますが、うまくいきません。むしろ内閣改造は福田を入れた内閣から、再び田中・大平連合で突き抜けようとします。挙党体制は崩壊。しかし、田中には「史上初のアメリカ大統領(当時はフォード)訪問」を成功させなければならないという大きな総理としての仕事があったため、やむを得なかったのです。
岸信介も果たせなかったアメリカ大統領訪日。日本が経済大国から政治大国へと移るうえでは必要なセレモニーであり(少なくとも当時はそう考えられており)、田中は「退陣覚悟」で挙党体制崩壊というリスクを背負わざるを得なかったのでした。
大統領訪日日程終了後、田中は退陣表明。「今太閤」の政権は、幕を閉じました。
田中の「失脚前」「失脚後」
田中の登場は、思うと必然でした。岸から佐藤まで続いてきた官僚出身宰相に、人々はしだいに大きな停滞感を感じはじめます。経済成長とともに、それはインフレ、公害、過密過疎などという形で現れはじめました。田中が佐藤派の大半を掌握することができたのは、長期官僚政権に幕を降ろし、大衆を引っ張っていく力のある政治家が必要だ……そう考えていた若手議員たちの動きがあったこそでした。
しかし、相次ぐ経済危機に対して、政策には必ずしも通じているとはいえない田中は太刀打ちできませんでした。「金脈疑惑」は田中の失脚に追い打ちをかけただけで、早晩田中は退陣していたでしょう。
田中は、大きな挫折感を味わいます。それは成功した起業家から政治家に転身、そして国のトップへと駆け足で昇っていった田中が味わった、始めての苦痛だったに違いありません。
田中後の自民党については、次の回以降書いていきます。しかし、田中のその後も決して平坦ではありませんでした。
不眠が不眠を呼び、彼の酒量は一気に増えていったといいます。それは「ロッキード事件」後、復讐を誓ってむしろそれをバネに再起する田中の活力源になりました。そして、それは彼の政治生命を一瞬にして奪う「爆弾」にもなっていったのです。
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