(2005.10.31)

自民党激動の70年代、それはあまりにも長期政権を率いすぎた佐藤栄作の後継をめぐる田中角栄福田赳夫の争いが発端でした。田中と盟友関係を組む大平正芳、小派閥ながら機を伺う三木武夫、そしてにわかに台頭してきた中曽根康弘の「三角大福中」時代の、まずは序曲です。

1ページ目 【「意中の後継」福田への政権禅譲を逸した「佐藤4選」と「沖縄返還」】
2ページ目 【「決断と行動」田中の華々しい勝利と国民的人気、それを襲った「狂乱物価」】
3ページ目 【「コンピュータつきブルドーザー」の挫折……田中政権とは何だったのか】

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【「意中の後継」福田への政権禅譲を逸した「佐藤4選」と「沖縄返還」】

70年代初め、激しく揺らぐ自民党の地盤

70年代の自民党も相変わらず大きな議席を維持していました。しかしその一方で、得票率がじょじょに低落し、大都市では首長の座を革新勢力に奪われる……これは前回もお話しました。

また、国際情勢も多難でした。71年、突然、アメリカのニクソン大統領が訪中し、電撃的な米ソ和解。また、ニクソンはドル=金交換停止も発表し、日本や欧州の復興によって相対的に落ち込んだ経済力を力づくで立て直そうとしていました。

そんななか、続く佐藤栄作の長期政権。いつしかそれは連続記録として日本最大の7年以上に及ぶことになりますが、佐藤政権の末期、はたして日本外交は機能していたのかどうか。

佐藤は3期で総裁を辞めるべきだったのかもしれません。やるのであれば、とことん、引きずり降ろされるまで頑張るべきだったのかも知れません。

いずれにせよ、佐藤は「72年沖縄返還で引退」という「輝かしい花道」を、ただ待っていたのでした。こうして、70年代、角福抗争の時代へと突入していくのでした。

「角福戦争」の構図=佐藤・岸派の分裂

佐藤後、いわゆる「三角大福中」、つまり三木・田中(角)・大平・福田・中曽根の5派による激しい抗争が生まれることになります。

しかし、実質上は田中角栄と福田赳夫の争いでした。大平正芳は田中の盟友でもあり、三木と中曽根は小勢力をどのようにうまく動かすかをさぐっていました。

つまり、自民党を長年支配してきた佐藤・岸の兄弟同盟は、その後田中角栄と福田赳夫に分かれ、自民党の主導権をめぐって激しく争うことになるのです。これが「角福戦争」の図式だったのです。

前回、実はすでに田中と福田が、ポストなどをめぐって対立する様相が生まれていたことをお話しました。いわゆる「均衡財政」をうたう元大蔵官僚・福田に対し、田中は積極財政による「利益誘導」政治を進めていきます。政策的にも対称的な2人でした。

田中角栄の台頭と派閥システムの構築

佐藤が描く意中の後継者は福田だったといわれます。実兄・岸の路線に忠実な福田は、自民党右派のプリンスでした。

しかし、結果的に緒戦は田中が勝利します。なぜ、田中にそれが可能だったのでしょう。

田中は集金力に非常に長けていました。戦中戦後にかけて資金力を伸ばした企業「田中土建」は、その後数々の企業を手に入れ「田中ファミリー」を形成。地縁や血縁に頼った資金集めしかできない政治家たちとは雲泥の差が、この時点からできていました。

田中は議員になるや難しいといわれる議員立法を次々に通します。たとえばガソリン税の道路建設財源への目的化など。これらの利害は官庁と業界が山分けします。その仲介者として田中は権力をふるいます。

そしてこれら開発の恩恵は田中の地元・新潟を代表とする農村部へ分配。農村から社会党支持者はいなくなり、農村は自民党、そして田中勢力の大票田になっていきます。

この豊富な資金力と大きな政治力を背景に、やがて岸・佐藤派の若手議員たちが、田中のもとへとやってくることになります。

こうして佐藤が沖縄返還の花道を思い描いていた頃、着々と田中は「佐藤派乗っ取り」を進めていたのでした。

「佐藤4選」というみこしにかつがれた「宰相」

しかし、もし佐藤が今後の影響力も考え、3期目の人気終了後、福田に政権を「禅譲」していれば、田中はどうなっていたでしょうか。

しかし、佐藤は4選に打って出るかどうかで、次第に優柔不断になっていきます。そこをついたのが田中でした。一生懸命、佐藤4選ムードを盛り上げていきます。

また、盟友大平も一役買いました。池田派をついだ前尾繁三郎が立候補の動きを見せていました。前尾自身、ここで立候補しなければ派閥の領袖としての面目が立たないと思ったことでしょう。

それを止めたのが大平です。大平は、前回の総裁公選で出馬だけして、資金集めなどは任せきりにした前尾に不満を持つ議員たちを集めます。こうして出馬困難の様相が濃くなってきた段階で、田中が佐藤4選後の前尾入閣を約束。こうして前尾はろう絡されてしまいました。

公選は佐藤と三木武夫の一騎討ち。佐藤323、三木111。佐藤の圧勝といえば圧勝でしたが、三木が100を大きく上回ったことは、佐藤がここにきてその求心力を落としてきていることを示すものと受け止められました。

そしてまたも失敗「福田禅譲計画」

こうした中、田中はいよいよ多数派工作。その資金にものをいわし、佐藤派の3分の2を自分のもとへ誘導していきます。

田中の盟友大平は、佐藤4選後、反前尾派を使って前尾を辞任させ、第2派閥の領袖となっていました。三木も佐藤カラーの強い福田を嫌って田中寄り。「風見鶏」中曽根の動向だけは、よくわかりませんでした。

こうした中、福田の後見役、保利茂は佐藤に72年大会での福田への「禅譲工作」を進言。党大会は1月ですから、ここで公選すれば、まだ福田は間に合ったかも知れません。

しかし、「沖縄返還=花道」にこだわったのか、佐藤は保利の案に乗ってきません。こうして福田への政権禅譲が伸びていくなかで沖縄返還が近づき、自民党内はいよいよ慌ただしくなってくるのでした。

◎「沖縄返還の時の首相でいたい」さすがの佐藤も政権ボケしたのだろうか……


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