2ページ目 【自民党型「利益誘導政治」のはじまりと池田・佐藤の正面対決】
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【自民党型「利益誘導政治」のはじまりと池田・佐藤の正面対決】
池田の「派閥協調」「大衆迎合路線」への反発
さて、池田は61年に内閣・党人事改造を行い、幹事長に腹心前尾繁三郎、副幹事長に自派幹部の鈴木善幸、政調会長に佐藤派の田中角栄。その他、河野一郎、佐藤栄作、藤山も入閣し、「実力者内閣」とよばれ、人気はさらに高まります。しかし、この「大衆迎合路線」にまったをかけようとしたのが岸派の後を継がんかという勢いで台頭してきていた福田赳夫でした。
田中の前に政調会長だった福田は(ここから角福戦争のはじまりが見えてくるのですが)、人気取り政策と派閥権力に固執する池田を批判、「党風刷新懇話会」を発足させます。
しかしながら、62年の総裁選は無風。池田のみが立候補の信任投票。結果、池田391票、白票・無効票などのいわゆる「批判票」は72票。
しかし、福田が懸念した「大衆迎合路線」は、「利益誘導型政治」として、自民党に巣くうことになるのでした。そのきっかけを作ったのが、これからお話しする「全国総合開発計画(一全総)」になるのでした。
「一全総」から本格化、自民党の「利益誘導政治」
1950年に制定された国土総合開発法に基づき、最初の「全国総合開発計画(一全総)」が策定されたのが1962年です。以後、今まで5回にわたり「全国総合開発計画(全総)」が作られています。しかし、最初の全総は、鉄道や港湾・道路といった生産部門のハードだけが重視され、生活関連の社会資本は軽視されていたという批判もあります。それについての議論は絶えませんが、「全総」策定と実行のなかでも、東京の過密と地方の過疎はむしろ進んでいったことは、厳然とした事実です。
さて、一全総の策定過程で、早くも「どこを開発するか」で地元政治家を中心とした「利益誘導」型の衝突が起きています。そして、その過程の中で、その「利益」は早くも肥大化の兆しを見せ始めていることにも注目です。
たとえば、調整役の宮沢喜一経済企画庁長官は四国の「新産業指定都市」を1ヶ所に絞ろうとしますが、地元徳島を推す三木武夫科学技術庁長官と同じく地元東予を推す河野建設相が激しく衝突。結局、「二市とも指定」で一件落着。
「族議員」というシステムの登場
そして、一全総から早くも、各省の縄張り合戦が展開され、それに対して自民党とその大物政治家が介入、はやくも「官庁=族議員」の関係が構築されようとしていました。まず閣議決定の段階で農相だった河野は農林省が加わることを強硬に提案。一全総が工業都市主体で、通産相だった佐藤の政治的影響力が増すことを警戒した動きでした。このようにして、公共事業の肥大化の予兆が、すでにこのときから始まっていたのでした。
さて、一全総が策定されて実行に移され、結果はどうだったのでしょう。結局、過密と過疎、地域格差の深刻化を食い止めることはできなかったわけで、それはすでに1965年、70年の国勢調査の結果から明らかでした。
しかし、日本のGNPの伸びはすさまじく、公共事業は膨らまし放題、といっても過言でない状況。そんななかでは、今日の日本経済の状況を予測できる人は生まれえなかったのでしょうか。
「吉田学校の優等生」池田と佐藤がいよいよ正面激突
さて、話を自民党の動きに戻します。64年の総裁公選を目指し、いよいよ佐藤は出馬の意向を固めます。佐藤は池田に政権を譲るよう仲介人を通じて要請しますが、池田は拒否。とうとう、「吉田学校」優等生の直接対決となったわけです。実弾選挙は最高潮に。「トロール(一括買収)」「ニッカ(二派から金をとること)」「サントリー(三派から金をとること)」などといった隠語がとびかう始末。
結局、池田242票、佐藤160票、藤山72票、灘尾弘吉1票、無効3票。かろうじて過半数をとったものの、佐藤の160票は重い数字でした。それでもなんとか、勝ち取った政権でした。
しかし……好事魔多し。
池田、突然の退陣……組織も資金力も高人気も、ガンには勝てず
伊藤秘書官は、宮沢から池田がガンだと聞いて、とても信じられなかったといいます。それだけ元気にふるまっていた公選から2ヶ月足らずの9月7日夜。そしてほどなく国立がんセンターに入院。日本悲願の東京オリンピック、開会式には出席できたものの、もはや選択肢は退陣しか残されていない状況に。
オリンピック閉会式の翌日、池田は退陣を発表することになります。
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