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自民党の歴史 長期政権化とそのひずみ(3ページ目)

自民党の歴史、今回は60年代の池田・佐藤内閣を見て行きます。高度経済成長の中、自民党は長期政権政党として君臨。しかしその栄光の影で、おおきなひずみが自民党をむしばみつつあったのでした。

執筆者:辻 雅之

1ページ目 【池田政権の「安定飛行」、しかしその背後では大きな変化が……】
2ページ目 【自民党型「利益誘導政治」のはじまりと池田・佐藤の正面対決】
3ページ目 【戦後最長、佐藤政権を常にゆるがしていたもの……沖縄返還と70年安保】

佐藤政権の発足と「黒い霧」

さすがに激しい公選から数ヶ月、再度公選……というわけにはいかず、結局池田の裁断任せに。池田は河野か佐藤か迷ったあげく、佐藤を指名。こうして佐藤政権発足となりました。

佐藤政権の滑り出しは、言い方は悪いですが順調でした。言い方は、というのは、相次ぐ実力者の死がその順調さをもたらしたからでした。

すでに大野伴睦が64年死去、65年には池田が死去、そして河野も急死。他の大物といえば実兄の岸くらいですから、政権の行く末順風満帆かに見えました。

しかし、「黒い霧」が政権を直撃します。つぎつぎに自民党政治家をめぐる汚職・不祥事が相次ぎ、佐藤自民党は批判の嵐にさらされます。こうして、66年末の総裁選は佐藤に藤山が挑戦し、それを旧河野派の一部を受け継いだ中曽根康弘派などが支持する、という形になりました。

結果、佐藤289票、藤山89票、灘尾11票、野田卯一9票、無効その他52(うち旧池田派を継いだ前尾の名前が47票)。過半数を得たものの、佐藤派の予想を下回る票数に。

幹事長だった田中は更迭。論功的には、自己の企業グループなどを持ち強力な資金力で貢献した田中が人事的に報われるはずでしたが、田中の出世に反感も集中。葬祭公選の結果を見た佐藤による、反田中派への配慮、派閥引き締め人事でした。そして、反田中派の求心力になりつつあった福田が、幹事長に。

逆風自民党の勝利と都市で進む「革新自治体」の波

67年総選挙は自民党277議席とわずかに6議席減。社会党も4議席減らして140。逆風自民党は「勝利」に酔いしれ、社会党は敗北に沈みます。民社党が30議席、公明党が衆院初進出で25議席、共産党5議席。

しかし、最初のページでお話したとおり、人口構造が「都市型労働者」中心に転換するなか、彼らに支持を食い込ませていけない自民党の支持基盤は崩れはじめていました。

最初のページでお話したような明らかな得票率低下がなかなか議席に反映されなかったのは、(1)※中選挙区制による選挙(2)議員定数が農村部に偏り、都市住民の票が正確に反映されない不平等な構造だったこと、などがあげられると思います。

※中選挙区制:大選挙区制の小規模なもの。2~5名程度が当選するため、比較的得票が少ない候補でも当選するきらいがあった。

中選挙区制をとらない大統領型の地方首長選挙では、大都市であきらかに自民党の劣勢が現れました。「革新自治体」ブームの到来です。

67年には、東京都知事に社会・共産推薦の美濃部亮吉が当選。その他の大都市にも革新系首長が相次いで誕生。自民党にとっては大きな警鐘でした。

沖縄返還と、それに伴って明確化する田中=大平VS福田の構図

そんななか佐藤が掲げていた目標が、「沖縄返還」でした。それはアメリカの安保政策の転換もあって実現したのですが(くわしくは拙稿『占領下沖縄の歴史 1945~72』をご参照ください)、当面の目標は沖縄をどういうふうに復帰させるか、つまり「核抜き本土なみ」でアメリカに返還させるか(というより、できるのか)、ということが焦点になりました。

こうしてアメリカと長期間に及ぶ交渉が行われるなか、68年に総裁公選を迎えます。国民の多数が望む「核抜き本土なみ」返還を明言しない佐藤に対し、外相だった三木が閣外に去って「核抜き本土なみ」を訴え佐藤を批判しながら出馬。佐藤は怒り心頭。前尾も出馬します。

結局、佐藤249票、三木107票、前尾95票。表向き「自由投票」だった中曽根派ですが、実は三木に多く入れていたといわれています。ともかくも三選は決定しました。

佐藤は沖縄返還、そして70年安保延長に向けて(1960年改定された安保条約は、10年後に自動延長か否かを決定することになっていた)、旧池田派である前尾派の協力は不可欠と考え、前尾派と人脈の強い田中を幹事長に復帰させ、前尾派幹部鈴木を総務会長に起用。

この時期、沖縄返還を軸にしながら、田中=大平同盟に対峙する福田(後見に保利)という図式が、できあがった観があります。

なんとか「核抜き本土なみ」返還を実現した佐藤

アメリカの大統領となったニクソンは「核抜き本土なみ」返還をほぼ決定していましたが、外交的マキャベリズムに長けたニクソン=キッシンジャーのコンビはそれをカードとして使うべく、ひた隠しにします。

このことは、後にニクソンの頭越し米中国交回復によって佐藤も福田も田中も、思い知らされることになるのですが。

佐藤は「ミスター・ヨシダ」(実名は若泉敬・当時京都産業大学教授)を密使としてたびたびワシントンを訪問させますが、今ひとつよくわからない。そんななか大学紛争は高まり、学生は東大安田講堂に篭城、陥落、東大の入試は中止。

大学関係者からの声もあり、政府は「大学立法」を提案。大学紛争に政府が直接介入することができるもので、「大学の自治」をおびやかすものとして学生のみならず教官たちからも反対の声。しかし自民党は強行採決。

これもまた、70年安保をにらんだものでした。もう10年前の悪夢は繰り返したくないわけです。特に実兄、岸と一緒に二人きりで官邸で「自動承認」の夜を明かした佐藤としては。

このような情勢を見てワシントンは日本に「極東に日本がより大きな責任を持つ」という宣言と引き換えるような形で、「核抜き本土なみ」の72年沖縄返還を約束。安保延長につながる沖縄核抜き本土なみ返還と引き換えに、佐藤はニクソンの意、つまりヴェトナムに貼り付けのアメリカの変わりに日本は北を守れ、というものをのまざるを得なかったわけです。

「自民党の歴史」この連載のトップページはこちら!

「自民党の歴史(3)長期政権化とそのひずみ」についての参考書籍・資料はこちらをごらんください。

▼こちらもご参照下さい。
大人のための教科書 政治の超基礎講座

「政治の基礎知識・基礎用語」 政治の基礎的な知識はこちらでチェック!

◎学生と警察の激戦が行われた東大安田講堂……しかし大衆は動かず


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