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自民党の歴史 長期政権化とそのひずみ

自民党の歴史、今回は60年代の池田・佐藤内閣を見て行きます。高度経済成長の中、自民党は長期政権政党として君臨。しかしその栄光の影で、おおきなひずみが自民党をむしばみつつあったのでした。

執筆者:辻 雅之

(2005.10.14)

自民党の歴史、第3回目は自民党が高度経済成長とともに「安定飛行」を行う1960年代、池田勇人佐藤栄作の二人の首相を中心に見て行きます。60年代の自民党の安定を支えたもの、そして激動の70年代への序曲とは?

1ページ目 【池田政権の「安定飛行」、しかしその背後では大きな変化が……】
2ページ目 【自民党型「利益誘導政治」のはじまりと池田・佐藤の正面対決】
3ページ目 【戦後最長、佐藤政権を常にゆるがしていたもの……沖縄返還と70年安保】

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【池田政権の「安定飛行」、しかしその背後では大きな変化が……】

高度経済成長に「乗っかった」自民党政治の路線

1960年代の自民党は、高度経済成長のなか、安定した政権運営を行い、自民党の長期政権化の基礎を築いたといえます。

その理由はなんといっても「経済政策」への路線転換にあったことはいうまでもありません。安保闘争に懲りた自民党は、「所得倍増」といった経済政策路線を進むことによって、安定した支持を獲得していきます。

1960年代末、ベトナム反戦運動、パリ5月革命、そして70年安保改定が控えた日本でも、米仏と同様に学生運動などが激化していきましたが、それが「悪夢の安保闘争」の再現をすることにはならなかったのは、日本の高度成長に人々が酔いしれていたせいかもしれません。

また、60年代後半には、日本のGNPが世界第2位に躍り出る中で、日米協調カードを巧みに操りながら経済力を使って国際的発言力を増すこともできました。沖縄返還は、実現は70年代に入ってからですが、その所産ということもできるでしょう。

自民党支持基盤のじわじわとした低落

しかし、「55年体制」自体は、確実に変化していました。

自民党の議席は安定していましたが、得票率はじわじわ下降していました。1960年総選挙での絶対得票率は41.9%。しかし、63年選挙で38.5%、67年選挙で35.6%、圧勝といわれた69年選挙でさえ32.3%と下降が止まることはありませんでした。

自民党の従来の支持基盤は一に農村住民であり、二に自営商工業者たちでした。しかし、経済成長に伴う産業構造の変化で、彼らの数は減り、都市型の賃金生活者が国民の半数以上を占めるにいたります。

しかし、自民党はこの転換についていくことに遅れました。1965年8月の朝日新聞社調査では、自民党は「給料生活者」の39%との支持しか獲得していません。過半数の支持が得られるようになるのは、80年代に入ってからです。

野党の弱体化と多党化が自民党の長期政権を許した

では、なぜ60年代、自民党は長期政権を難なく維持できたのでしょうか。それは、社会党の長期低落と、野党の多党化にありました。

社会党の議席数・得票率は1958年選挙をピークに、ともにじわじわと低下していきます。前回お話した、58年選挙での伸び悩みが左派・右派の党内抗争へと変化していき、党の勢いは落ちて行ったのでした。

社会党が本来であれば「拾う」はずの、都市型労働者を受け止めたのが、新野党の民社党(社会党から分離)・公明党(1967年から衆院進出、27議席獲得)であり、議会政党として復活した共産党も受け皿の一翼を担いました。

社会党の後退と野党の多党化が、自民党長期政権を許す結果になっていたといえます。しかしそれは、自民党がその多難な70年代への備えを欠くことにも、つながっていくことになるのですが。

池田勇人の総理総裁就任まで

さて、ここから自民党の動きを見て行きましょう。

ポスト岸をめぐって、池田勇人(当時通産相)・藤山愛一郎(当時外相)・石井光次郎(当時党総務会長)が立候補します。

元大蔵事務次官から吉田内閣のもとで大蔵大臣を務めた経済通・池田のもとには、彼の政権に期待を寄せる財界からの資金が豊富にあったといいます。

すでに「宏池会(今の旧堀内派)」という「派閥組織」になっていた池田派は、この資金を武器にまたも「実弾(現金)戦」に突入していくわけです(10億円をゆうに超える「実弾」が飛び交ったとか)。

しかし、大勢を決めたのは池田の側近・大平正芳と、同じく佐藤の側近・田中角栄の連携でした。70年代の田中=大平連合はここに始まるわけですが、いずれにせよ、このとき、この2人の連携が大きな意味を持ったわけです。

結局、総裁公選は第1回投票で池田246票、石井196票、藤山49票。藤山は岸政権のナンバー2で、岸自身が「石井より池田」と考えていたため、2・3位連合は成立せず、決選投票で池田302票、石井194票。池田が第4代総裁に選出されます。

池田の「所得倍増政策」発表のインパクト

池田は首相就任早々、自民党を「安保闘争の悪夢」から引きずり出すため、「新経済政策」を打ち出します。

宏池会は年7.2%の経済成長、10年で国民所得倍増という案を池田に示しますが、エコノミスト池田の「経済的カン」で、最初の3年は平均9%、という上方修正がほどこされ、いわゆる「所得倍増政策」が発表されることになります。

このいささか高い目標の成立を疑う声もありました。しかし、結局社会党も同じような所得増加政策を打ち出さざるを得ませんでした。社会党の案は4年後に所得を1.5倍にする、というもの。

池田の秘書・伊藤昌哉はこれで「勝った」と思ったといいます。つまり、今まで社会党がしてきたような、正面きっての反対は、池田の経済路線に対してはできない、傷を探してみるしかない。

したがって、池田の「新政策」が支持を勝ち取ることは間違いないだろう。これが、主席秘書伊藤の考えだったわけで、実際そうなるわけです。

「寛容と忍耐」「低姿勢」を貫き総選挙に勝利した池田

池田はまた、「寛容と忍耐」をスローガンにすえ、ひたすら「低姿勢」を貫こうとします。これまた「高圧宰相・岸」に対するアンチテーゼでした。

そのとき起こったのが、浅沼稲次郎・社会党委員長暗殺事件でした。テレビも写していた公開討論会場での暗殺はショッキングなもので、その怒りの矛先はややもすると池田政権にも向きかねないムードでした。

ここで池田は、伊藤に「俺が読んだら、議場がシーンとしてしまうような追悼文」を書くように指示。もともと新聞記者だった伊藤は、持ち前の取材力で浅沼の人となりを把握し名文章を書きます。社会党議員でさえ涙ぐむ文章。

これで、池田の人気は決まりました。

60年総選挙では「安保の雨雲」はもうどこかに去って晴れ模様。自民党は296議席と大勝。社会党は145議席。ここから総選挙参加の民社党は23議席減の17議席と惨敗します。

◎長期政権、しかしその背後では都市化の足音が自民党を脅かしていた


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