2ページ目 【「和の政治」で自民党の抗争を終結させ、行財政改革に手をつけた鈴木政権】
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【鈴木流「和の政治」が今の自民党政治に残したものとはなにか考える】
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党内抗争に嫌気がさした鈴木元首相
鈴木元首相が総裁再選を辞退したことについては、諸説あります。政治的な行き詰まりをいう人もいます。たしかに、財政改革、行政改革は、もっぱら党内の調整に力を発揮した鈴木元首相のちからの及ぶところではなかったかもしれません。鈴木政権に端を発した行財政改革は、その後、今なお政界に影響を残す「三角大福中」の最後のアクター、中曽根元首相の政権で実現されていき、国鉄など三公社は民営化され、平成バブルの足掛かりを築きました。
しかし、本人が総裁再選を断念したのは、やはり水面下であいも変わらず行われていた田中派・反田中派の怨念闘争に嫌気がさしていたからであろうといわれています。退陣の記者会見で、彼はこう述べています。
「自分が総裁の座を競いながら、党内の融和を説いても、どうも説得力がないのではないかと、この際、退陣を明らかにし、人身を一新して、新総裁のもとに党風の刷新を図りたい、真の挙党体制を作りたい」(升味準之輔著『日本政治史4』より)
こうして、自民党の挙党体制を念じて、彼は首相の座を降りたのでした。
そして、挙党体制なった自民党
鈴木政権のあと、たしかに自民党は挙党体制の道を歩んでいきます。中曽根元首相は予備選を戦いましたが、その後はとくに抗争もなく、特に影響力の強かった田中元首相が病気で倒れたあとは、自民党をひとつにまとめあげ、長期政権をつくりました。
続く竹下政権は、中曽根元首相の裁定で誕生しました。挙党体制の維持が目的でした。田中派をつぐ竹下派と、福田派をつぐ安倍派は、ともに連合を組み、怨念の角福対決は完全に幕を閉じました。
その後、リクルート事件を経て、鈴木派の流れを組む宮沢政権が誕生。総裁選は行われましたが、形式的なもので、抗争らしい抗争はおきずじまい。
宮沢政権が倒れたあと、政界再編で自民党から議員たちが多く流出しましたが、その後も橋本政権、小渕政権、そして「五人組」の密室協議でできた森政権と、ともに「挙党体制」が叫ばれ、自民党の政界支配は続いていきます。
そして派閥は、怨念抗争の拠点から、完全に党内組織として機能するようになります。派閥に入ることが、自民党の政治家の第一歩。派閥に入ることによって、カネとポストが回ってくる。派閥は完全に自民党体制の中に組み込まれました。
挙党体制という「温室」そだちの自民党議員たち
しかし、この挙党体制は、思わぬ人材難を生んでしまった、と考えるのは私だけでしょうか。抗争のない中、自民党の政治家たちに「三角大福中」のような怨念抗争を繰り広げた迫力のある政治家はいなくなりました。加藤紘一元幹事長は、森政権の末期に森政権打倒を目指して「加藤の乱」を起こしましたが、あっという間に腰砕けしたことは、記憶に新しいですよね。
そして小泉政権の誕生。いわゆる「抵抗勢力」には悪あがきをするか、または小泉首相と結託して自らの保身を図るしか手がありませんでした。それを象徴するのが2003年の自民党総裁選でした。
野中広務元幹事長が議員引退をかけてまで反小泉勢力の戦いを挑もうとしましたが、保身を図る多くの議員たちはどんどん小泉首相になびきます。反小泉陣営からは、それをひきもどすカリスマのある指導者は現われませんでした。
2004年の参院選での自民敗北でも、だれも小泉首相の責任は問いません。問えないのです。挙党体制という温室で育った自民党政治家たちに、「変人」小泉首相を追及する迫力のある政治家はいなかったのです。
このような状況を、鈴木元首相は天国でどのように見ているのでしょうか。いずれにせよ、行財政改革の先べんをつけたのは鈴木氏の功績です。ご冥福をお祈りします。