2ページ目 【「連合王国」ができるまで】
3ページ目 【「連合王国」は解体するのか?】
【「連合王国」ができるまで】
ダイアナはなぜ「プリンセス・オブ・ウェールズ」だったのか
グレートブリテン島(以下ブリテン島といいます。ブリティッシュのブリテン。)は古代ローマ帝国に征服されたこともありますが、10世紀後半には、アングロサクソン人のイングランド、ケルト系民族のウェールズ、スコットランドの3つの王国がたちならぶようになっていました。
このなかで最も優勢だったのがイングランドです。イングランドはまずウェールズを侵略。1282年、ウェールズ全土を征服してしまいます。その後も形のみウェールズという国は残りますが、1536年、ウェールズ併合法によりウェールズはその国の形もなくなってしまいます。
ちなみに、このときイングランドがウェールズ人の感情を考えてとった措置の一つが、「イングランド皇太子を《プリンス・オブ・ウェールズ》とよぶ」というものでした。今日でもこれは続いています。故ダイアナ妃はプリンセス・オブ・ウェールズでしたね。
さて、イングランドはスコットランドとの戦いも優勢にすすめており、1296年にはいったんスコットランドがイングランドによって完全消滅してしまうほどでした。しかし1306年には独立を回復、百年戦争とよばれるイングランドとフランスとの戦争にも介入したりして、その地位を守ってきました。
その後イングランドは16世紀になると、かの女王エリザベス1世統治のもと発展をはじめ、スペインの無敵艦隊を破るなど海外進出もはじめていきます。しかし終生独身だった彼女が亡くなると、スコットランド王のジェームズ6世がイングランド王として即位、イングランドとスコットランドの「連合」がはじまることになりました。
しかし、ジェームズ6世(イングランドではジェームズ1世)のあとつぎたちはその専制的な政治でイングランド議会と対立、二度の革命(清教徒革命・名誉革命)を経て追い出されてしまいます。ブリテン島はふたたびイングランド優位となり、1807年、両国は「合同」し、スコットランド議会も「合同」というかたちで廃止させられてしまいました。
ブリテン島の西隣、アイルランド島はむかしからケルト系の民族がすんでいましたが、ここもやはりイングランドの侵略を受けます。1800年、完全に併合されてしまいますが独立運動がつづき1922年に事実上独立、現在に至っています。ただし、北アイルランドは宗教上の理由で連合王国にとどまっており、これにともなう紛争がつづいています。これについてはまたあらためて解説することにしましょう。
最後のページでは、スコットランド・ウェールズの今について解説していきましょう。