「第1章 カフェの天使が浮かんでいる」より抜粋
○バリトン・カフェでコーヒーを
カフェの好きなひとなら、おそらく一度は世界でもっとも心地良いカフェを空想して楽しんだことがあると思う。私にとっては、クラフト・エヴィング商會の本のなかに登場するバリトン・カフェがそれだ。
バリトン・カフェでは店主もお客さまも男女を問わず「バリトン的」な声で話し、音楽もバリトン的なものが選ばれる。裏声や金属音や高血圧、高飛車など、「高音的」なものはいっさい店内に持ちこまれない。
もともと低音的な存在であるコーヒー豆も、店主によっていっそう「バリトン化」されている。バリトン化とは、夜中に店主がコーヒー豆を集めて、長い小説を朗読して聞かせる作業のこと。たとえば、毎晩すこしずつ『カラマーゾフの兄弟』を豊かなバリトンの声で読んで聞かせると、コーヒー豆はカラマーゾフ的にバリトン化していく。
バリトン・カフェの扉を開けて、足音を響かせないようソファにそっと座り、私はあらかじめロード・ダンセイニ的にバリトン化するよう注文しておいたブレンド『ペガーナ』を飲みたい。深煎りのスモーキーな香りとともに、忘れられた神々の言葉の残響がたちのぼってくるコーヒー。
バリトン・カフェでは店主もお客さまも男女を問わず「バリトン的」な声で話し、音楽もバリトン的なものが選ばれる。裏声や金属音や高血圧、高飛車など、「高音的」なものはいっさい店内に持ちこまれない。
もともと低音的な存在であるコーヒー豆も、店主によっていっそう「バリトン化」されている。バリトン化とは、夜中に店主がコーヒー豆を集めて、長い小説を朗読して聞かせる作業のこと。たとえば、毎晩すこしずつ『カラマーゾフの兄弟』を豊かなバリトンの声で読んで聞かせると、コーヒー豆はカラマーゾフ的にバリトン化していく。
バリトン・カフェの扉を開けて、足音を響かせないようソファにそっと座り、私はあらかじめロード・ダンセイニ的にバリトン化するよう注文しておいたブレンド『ペガーナ』を飲みたい。深煎りのスモーキーな香りとともに、忘れられた神々の言葉の残響がたちのぼってくるコーヒー。
○カフェに天使が舞いおりるとき
良いカフェには天使も翼を休めにやってくる。
はじめてそう思ったのは、線路沿いにある深夜のカフェでのことだった。 夫と私はお酒を飲んだあとで空腹になり、カフェでその日二度目の夕食をとっていた。とうに終電が出てしまった時刻で、店内は八割がたお客さまで埋まり、おだやかな活気に満ちていた。
そのときふと、あたりがほのかな光で満たされているのに気がついたのだった。一瞬、お店のスタッフが照明をわずかに明るくしたのかと思ったけれどそうではなく、空気そのものが淡く光っている。
ありえるだろうか、そのようなことが?
それぞれのテーブルで思い思いのことをしている人々とお店のスタッフと自分とが、ゆるやかな一体感に包まれて呼吸しているのが感じられる。どんな偶然と幸運が重なってか、世界が奇蹟のように調和した瞬間、その空間はうっすらと光をおびるのかもしれない。
働いている人々がその場所を好きで、働くのを楽しんでいること。座っている人々がその場所を好きで、自由に楽しんでいること。幸福な相思相愛が生まれている場所に、カフェの天使はふわりと舞いおりる。
天井の梁の陰で、あるいは観葉植物の影で、天使は静かに翼を休めている。
カフェの天使はたち去りやすい。だれかの携帯電話が調子はずれな音を鳴らしただけで、姿がかき消えてしまうこともある。 天使はある種の人間に誘われて降りてくることもあるらしい。中心的存在だったスタッフがひとりいなくなっただけで天使が訪れなくなり、カフェの空気がすっかり変質してしまうことがある。
気まぐれな、あてにならない天使の訪問。今日の午後三時にあのカフェに行きますから来てくださいと、天使を予約することはできない。
はじめてそう思ったのは、線路沿いにある深夜のカフェでのことだった。 夫と私はお酒を飲んだあとで空腹になり、カフェでその日二度目の夕食をとっていた。とうに終電が出てしまった時刻で、店内は八割がたお客さまで埋まり、おだやかな活気に満ちていた。
そのときふと、あたりがほのかな光で満たされているのに気がついたのだった。一瞬、お店のスタッフが照明をわずかに明るくしたのかと思ったけれどそうではなく、空気そのものが淡く光っている。
ありえるだろうか、そのようなことが?
それぞれのテーブルで思い思いのことをしている人々とお店のスタッフと自分とが、ゆるやかな一体感に包まれて呼吸しているのが感じられる。どんな偶然と幸運が重なってか、世界が奇蹟のように調和した瞬間、その空間はうっすらと光をおびるのかもしれない。
働いている人々がその場所を好きで、働くのを楽しんでいること。座っている人々がその場所を好きで、自由に楽しんでいること。幸福な相思相愛が生まれている場所に、カフェの天使はふわりと舞いおりる。
天井の梁の陰で、あるいは観葉植物の影で、天使は静かに翼を休めている。
カフェの天使はたち去りやすい。だれかの携帯電話が調子はずれな音を鳴らしただけで、姿がかき消えてしまうこともある。 天使はある種の人間に誘われて降りてくることもあるらしい。中心的存在だったスタッフがひとりいなくなっただけで天使が訪れなくなり、カフェの空気がすっかり変質してしまうことがある。
気まぐれな、あてにならない天使の訪問。今日の午後三時にあのカフェに行きますから来てくださいと、天使を予約することはできない。