椎の木坂
さて、ここが蟹川の最大のミステリーゾーンである。蟹川をたどってきた道はコンクリートの壁に突きあたってしまう。両側は長く急な坂。ひとつは「椎の木坂」という坂の案内板があった。コンクリートの上は大久保通りである。はて、昔はどうなっていたんだろう。昔は椎の木が生い茂っていたので、椎の木坂と呼ばれていたそうだ。 |
『神田川再発見』(神田川ネットワーク著/東京新聞出版局刊)にその答えがあった。大正2(1913)年に東京市電が大久保通りを走る際に傾斜がきつすぎるので、勾配のない道を造ったのだそうだ。つまりもともとの大久保通りは、この椎の木坂ともうひとつある坂で蟹川を越えていたのだ。
戸山公園をゆっくりと流れていく
江戸時代、戸山公園は、尾張徳川家の下屋敷だった。そこには回遊式庭園「戸山山荘」が作られていたそうだ。東海道をミニチュア化させたものが庭園として造られており、代表的なものが箱根山である。たぶん蟹川もこの庭園内に流れ、どこかの川を模していたのかもしれない。今でも戸山公園は都心とは思えない静けさである |
公園出ると、そこは箱根山通りである。ちょうど早稲田大学の文学部へ向かうところに遊歩道があるが、これが蟹川の痕跡だ。諏訪通りから、早稲田通りに出る。そこから早稲田中・高校の敷地を蟹川は流れていた。
早大通りのケヤキ並木
早稲田大学の前身である東京専門学校ができたばかりの頃の写真を図書館で見たが、見事にその周辺は田んぼだらけであった。もちろん当時の地図にも田んぼばかりがある。緑が美しい早大通りのケヤキ並木 |
しかし、地図を見ても田んぼだらけで、今だとどの道かよくわからない。ここからは、さきほど紹介した『神田川再発見』で紹介されているイラストマップを参考に歩いた。
さあ、次ページでは
いよいよ文京区へ蟹川跡を探します。