荘則棟氏の「ピンポン外交」に関する主な講演内容は次のとおり。

荘則棟氏講演
目をつむり、回想しながら話す荘則棟氏
……「文化大革命」によって、中国は2回の世界選手権(1967年、69年)に出場しませんでしたから、1971年の世界選手権名古屋大会は中国にとって3大会ぶりの参加でした。その前年に、後藤?二先生(当時日本卓球協会会長)が中国を訪れ、中国チームの出場のために尽力してくださいました。大会に参加するにあたって、周恩来総理からは「友好第一、試合第二」という言葉がありました。

日本の受け入れ態勢はとても素晴らしく、宿泊するホテルや移動のバスも中国専用のものを用意してくださいました。ある日、私たちがバスに乗って試合会場の体育館まで移動するときに、ひとりの外国人が慌てて飛び乗ってきました。乗ったのはいいが周りが全員中国人だったことに驚いたようで、すぐに降りようとしたのですが、ドアが閉まり、バスは発車してしまいました。そのとき、降りようとして彼が振り向いたときに、背中に「USA」の文字が見えたのです。

そのアメリカ人の選手は10分間ほど黙ったまましゃがみこんでいました。そのあいだ、私はバスの一番後ろの席に座りながら、このアメリカの選手に声をかけるべきかどうか葛藤していました。というのは、当時の中国には「どこの国の選手と話をしてもよいし握手してもよいが、アメリカの選手とだけは接触してはいけない」という鉄の規律があったからです。しかも、外国人と接した人間はスパイ扱いされるという、文化大革命の真っ只中だったのです。

友好第一なら、声をかけてもいいだろう……

しかし、私はこう考えました。今回は周恩来総理から「友好第一、試合第二」という指示があったわけで、友好ということを考えれば彼と話をしてもいいんじゃないか、と。あと5分で会場に到着するというときに、私は心を決めてアメリカ選手のもとへ歩き出しました。すると、仲間から「どうするつもり?」と聞かれました。「あのアメリカの選手に声をかけようと思う」と言うと、周りのみんなから反対されました。でも、彼は選手であって、政治の人ではないわけです。

私はバッグのなかからお土産を取り出して、アメリカ選手のもとに近づきました。そして「アメリカの選手と中国の人民は友だちです」と言って、彼にお土産を渡し、握手をしました。すると、そのアメリカ選手は「中国選手がいい試合をしてくれることを祈っています」と言ってくれました。ちょうどそのとき、バスが到着したのです。

バスは大勢の報道陣に囲まれ、写真を撮られました。翌日の新聞に「中米接近」という見出しとともに大々的に取り上げられました。その記事が出たあと、アメリカ代表団のハリソンという副団長が中国のホテルを訪れ、「この大会が終わったら、アメリカチームを中国に招待してほしい」という申し出がありました。それを中国の外交部に伝えたところ、外交部では「まだ時期が早い」として無理だと判断し、その報告書を受けた周恩来総理も同意しました。

ところが、私とアメリカ選手との記事を見た毛沢東主席が、「報告書を持ってきなさい」と言いました。「アメリカの卓球チームを中国に招待しよう」と言い出したのです……。

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