全日本優勝2回の実績を上積みした彼は、アトランタ五輪ではシングルスにベスト16、渋谷浩とのダブルスではベスト8入賞という好成績を残した。
97年の世界選手権では渋谷とのダブルスで、日本に14年ぶりのメダルをもたらした。
その夏にはドイツに渡り、翌98年シーズンからは1部の名門デュッセルドルフでプレー。
2000年2月には日本のエースとして世界団体銅メダル獲得の立役者となった。
選手としての全盛期といっていいだろう。
しかし、集大成と位置づけて臨んだシドニー五輪では、シングルスはまたもベスト16、ダブルスは1回戦で敗れた。不満というよりは、不完全燃焼の大会だったかもしれない。
その直後、カットマンの彼に追い討ちをかけるように40ミリボールが導入された。
40ミリ最初の世界選手権となった01年大阪大会では男子団体13位のワーストタイ記録。
時に33歳。彼にはいくつかの「選択肢」があったかもしれない。
だが、彼は「戦う」ことをやめなかった。
その後、マネジメント会社「チームマツシタ」の代表取締役という肩書きも加わった。
昨年11月には中国・天津で4カ国対抗のトヨタカップを実現させた。
それは卓球人としての彼の人生に多くのものをもたらした一方、プロ選手としての彼から少なくないものを奪ったはずだ。
だが、「選手」であるかどうかは、私にとって、それほど大きな関心事ではなくなっている。
一昨年の記者会見での言葉が、いまも耳に残っている。
「(選手生活への)影響はあると思うんですけども、その中でもやっていかないといけないという年齢にきていると思うんですよ」
その頃から彼を、「選手」としてのみとらえるのをやめたからだ。
メールには、《いま、やっと精神的に少しゆっくりできそうです》ともあった。
アテネ五輪まで4ヵ月。心の充電期間と腰を治す時間はあるだろう。
五輪発祥の地での「4度目の夏」に、彼はどんな花火を打ち上げてくれるのだろうか。
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松下浩二選手
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