偉業といっていいだろう。
松下浩二が4大会連続となる五輪出場を決めた。
《プレッシャーのある中をなんとか通過することができました》
祝福メールの返信にそうあった。
男子シングルスの代表枠は7つ。
その枠は、まず6組に分かれた予選リーグの1位に与えられ、残る1つは各組2位のリーグ戦の最上位者のものとなる。
世界ランキング47位の松下は、予選出場選手の中で5番目。
E組のトップ選手となり、強豪との対戦を避けられた。
本来の実力をもってすれば、同じ組に負ける相手はいない。
だが彼は、3月の世界選手権の前から腰痛に襲われていた。
いまだ完治していないという。
36歳という年齢が回復を遅らせているのかもしれない。
できることなら1セットでも少なく「ケリ」をつけたかったのだろう。
3試合すべて4-0のストレート勝ち。
圧勝にみえるが、彼のホームページの会員用日記を読むと、内容的には苦しかったようだ。
メールには、《(腰が)なんとかもちこたえてくれてよかったです》とあった。
あれから12年が経つ。
1992年1月、バルセロナ五輪の国内予選を前に、松下はひとつの決意を固めていた。
「予選を通過できたら、だれがなんと言おうとプロになる。通過できなかったら潔くあきらめる」
当時、協和発酵にいた24歳の彼は全日本ベスト4が最高の成績だった。
日本のトップ選手とはいえない位置にいた。
その選手の、無謀とも思える「夢」に、周囲の大半は反対した。
だが、バルセロナ五輪の切符をもぎとった彼は、翌93年4月、日本人初のプロ選手となった。
その年の暮れに全日本を初制覇。
そこから日本卓球界の「新時代」がはじまった、といっていい。