プロレス/プロレス関連情報

大阪プロレスにみる地域密着の尊さ

大阪プロレスは激闘の7年を経て、本格的なプロ組織として飛躍を遂げるべく動き始めた。2005年大晦日、大阪プロレス社長スペル・デルフィンと話をして、その確信がますます深まりつつある。

執筆者:川頭 広卓

「プロレス不景気の中、頑張っている方じゃないですかね」

大阪プロレス社長スペル・デルフィン。大阪プロレスという大所帯を切り盛りしてきた経営者でもある(クリックすると拡大されます)
2005大晦日。『K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!』の開催に沸き返る大阪ドームを尻目に、デルフィンアリーナの前には沢山の親子連れが列をなした。大阪プロレスの年末イベント『大晦日HOLIDAY PARADISE』を観戦するためだ。2005年は選手の大量離脱や常設会場があるフェスティバルゲートの経営問題による余波で、深刻な危機に悩まされ続けた大阪プロレス。この窮地を耐え忍び、乗り越えた原動力は地道で堅実な営業努力にあった。

「プロレス不景気の中、頑張っている方じゃないですかね」

大阪プロレス社長スペル・デルフィンは、そう2005年を振り返った。レスラーとしては決して力強い言葉ではない。しかし、度重なる危機に直面しながらも、大阪プロレスという大所帯を切り盛りしてきた経営者としての本音が見え隠れする。

この年の大阪プロレスは、3月末の契約更新を機に闘いの中心であった村浜武洋、“ビッグボス”MA-G-MAら選手7名が退団。加えて、怪我により戦線を離れる選手も出たため、試合成立すら危ぶまれる事態に追い込まれた。

それでも、翌月には、大鷲透、政宗、秀吉というルード(ヒール)ユニットを投入。アイスペンギン、2代目えべっさんといった新キャラクターも登場し、“窮地”を“循環”に変え、創意工夫で自ら新しい状況を生み出すことに成功した。目を見張るのは、一過性の話題作りに終始することなく、ラ内田、小峠篤司、タコヤキーダーといった大阪プロレス純正の新人選手も定期的にリングへと送り出していることだ。彼らはメジャー団体にも匹敵する年間100数十試合を経験しながら飛躍的な成長を続け、次代の大阪プロレスを支える主役となっていく。

また、2005年の大阪プロレスは、フェスティバルゲートの経営問題に大きく悩まされた。この複合娯楽施設は大阪市の信託事業として1997年に開業。デルフィンアリーナは大阪プロレスの常設会場として、1999年にフェスティバルゲートへ入居。しかし、その後は、数年でフェスティバルゲートの入場者数が激減し、200億円というおびただしい赤字を垂れ流した挙句、2004年に管理会社が倒産した。

倒産後はオリックスが経営を引継ぎ、2005年春には「大阪市交通記念館」として施設の全面改装。一時はデルフィンアリーナがリニューアルするという嬉しいニュースもあったが、入居中の店舗との立ち退き交渉が決裂し、結局、計画は頓挫してしまった。いまも大阪市の不透明な対応に、振り回される毎日が続く。それでも、デルフィンは大阪市交通局とのやり取りを繰り返し、なんとか当初の契約通り平成19年7月まではデルフィンアリーナを常設会場として、これまで通り利用できる目処をつけた。

>>大阪プロレス、2006年に賭ける>>
  • 1
  • 2
  • 次のページへ

あわせて読みたい

あなたにオススメ

    表示について

    カテゴリー一覧

    All Aboutサービス・メディア

    All About公式SNS
    日々の生活や仕事を楽しむための情報を毎日お届けします。
    公式SNS一覧
    © All About, Inc. All rights reserved. 掲載の記事・写真・イラストなど、すべてのコンテンツの無断複写・転載・公衆送信等を禁じます