KOKルール時代の尖兵として
そしてレイシックはその三ヶ月後,高阪の後を追うように来日。RINGSの新路線「Kings of Kings」トーナメント、いわゆる“KOKルール”の大会に参戦する事になる。これは、この時プロモーターとしてアイオワにUFCを招聘したモンテ・コックス氏が、RINGS USAの代表として傘下の選手を日本に送り込む事になったからだ。高阪のUFC参戦はあくまで個人のチャレンジとしてのものであったが、当時閉鎖的になりつつあったRINGSに“UFCサーカス”からの新しい風を送り込む、“ふいご”のような役割も果たしつつあった。事実、KOKルールの採用自体、高阪のUFC参戦がなければあり得なかったといえる。それまで、RINGS前田日明代表は、世界の総合格闘技の基本ルールとなりつつあったVT系のルールを良しとせず、長年オープンフィンガーグローブの導入を拒んできた。そのRINGSがようやくKOKでVTに対応したということで、当時マスコミは多いに色めき立ったものだ。
ただしグラウンドパンチは無し。現在はZSTなどに引き継がれるスタイルだが、当時のRINGSにおいては、大陸が動くぐらいの衝撃があったと言っておこう。それほど頑固にVTに歩み寄る事を嫌っていた、前田代表が心を動かした背景には、高阪と言う尖兵が世界最先端の戦場UFCで戦う姿を、目の当たりにせざるを得なかったからに他ならない。
いわば、高阪の体を張ったアピールがあったからこそ、プロレスであったUWFの残滓をずっと継承し続けてきたRINGSも、ようやく世界の総合格闘技のデファクトスタンダード(業界標準)に歩み寄る決意を固めることになったと言える。賞金100万ドルのこのオープントーナメントには、翌年以降も外部の大物選手が次々エントリーを申し込んでくるようになった。
今やPRIDEのリングで“世界最強”を争うまでの存在になった、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラやエメリヤエンコ・ヒョードルも、このKOKルールで日本デビューを果たした新世代のホープだったのである。
翌年の2000年、高阪はRINGSマットでそうした“世界の強豪”たちを迎え撃つ立場となる。
まず8月にはノゲイラとシングルマッチで対決し、執拗なタックルにTKシザース(足を跳ね上げて上下を入れ替える高阪のオリジナルテクニック)を縦横に活かした戦いを展開。倒させておいて、逆に下からの膝十字を決めるなど柔術王者のお株を奪う“寝技大将”ぶりを発揮。後半高阪が膝を痛めるというアクシデントもあって、判定ドローに終わったものの好勝負を展開してみせた。
続く、12月には2000年のKOKトーナメント二回戦として、ヒョードルと対戦。このときはヒョードルの負傷トラブルという形で、試合は高阪の勝利に。だがこの黒星は、21戦に上るヒョードルの戦績のなかで、唯一の黒星なのである。
TKが未だに所属を名乗る“アライアンス(連盟)”の提唱者。モーリス・スミス。格闘家個人のネットワーク作りに定評がある。ただし、おしゃべりと辛口トークが珠に傷。ランディ・クートゥア復活にも尽力。 |
逆にこの時肌を合わせたクートゥアの強さが、現在の高阪をして“まだ世界に挑むには遅くない”と感じさせる原動力になっているはずだ。