前蹴りの誘惑
悪い予感は当たった。
決勝の相手は、掣圏会館の滝沢充。理論派の格闘技プロデューサー佐山聡氏の提唱する打撃系護身術・掣圏道の選手である。準決勝の相手とは打って変わって、滝沢はマイケルより頭ひとつ低い選手。
だが、マイケルはやはり距離が詰まった局面でひとつ覚えの前蹴りを繰り出してしまう。滝沢はこれまでのマイケルの試合ぶりをチェックしていたのかもしれない。マイケルが前蹴りに出た瞬間、その蹴り足を取って、顔面にパンチをぶち込んだのだ。一瞬、スリップダウンにも見えるシーンではあった。尻餅をついたマイケルはそのまま何ごともなかったように立ち上がったからである。
「多分、意識が飛んだと思います。あれ、なんでこんな所で寝てるんだ? って思って」
数日後会ったマイケルは、このダウンがスリップでもなんでもない正真正銘のダウンであった事を認めている。これが彼にとって生涯初のダウンであった。
この後、完全にマイケルの攻めは、ロストポイントを取りかえそうと焦る余り、単調で力んだパンチキックに終始することになる。対する滝沢はそんなマイケルの強引な攻めを、確実にブロックするだけでよかった。力量で劣ったというより、ゲームメイクの発想が有るか無いかの違いであろう。ピンポイントで敵の額に照準を合わせたライフル狙撃兵と、空に向けて闇雲に大砲をぶっ放す迫撃砲の勝負だったと言ってもいいかもしれない。
試合終了とともに、マイケルは両肩を落とし、目を閉じて大きく息を吐いた。
滝沢の勝利が告げられると、そのまま応援の友人にもセコンドにも一瞥だにせず、控え室に足早に消えて行く。山口氏も相当失望していたはずだが、その気配を微塵も覗かせず「慢心ですね…完全な慢心だな。相手を舐めてたんですよ」とクールに敗因を分析してみせた。
そうだろうか?
僕には逆の印象があった。
慢心ではなく恐れを。それも相手選手にではなく、目に見えない敗北に対する恐怖を、試合中のマイケルは感じていたのではないか。あの無意味な前蹴りの多用に、僕はそんな心理を感じていた。
(後編に続く)