■安住の地の幻影■
「超人的な業績を成し遂げるためには、和やかな生活が必要不可欠だ」
しかし、結局完結しなかったリベンジもある。
アンディがまだ極真所属だった1991年、悲願の優勝を目指して臨んだ第5回の極真世界大会で、その悲劇は起こった。当時新鋭のフランシスコ・フィリォとの対戦中、アンディは試合終了の笛が鳴った直後に、フィリォのハイキックを浴びて昏倒してしまったのである。普通ならタイムに救われるはずのこの攻撃だが、極真の“絶対君主”である大山倍達は「有効」と断定。アンディはまさかの三回戦敗退で、悲劇の主人公を演じることとなった。
この結果を受けてアンディは、あれほど愛した極真からの離脱を模索するようになった。そしてK-1旗揚げを目論む石井館長の誘いを受けて、正道会館への移籍を決意する。またもや、アンディは「家」を失い漂流の旅に出ることになったのである。
いわばその引鉄を引いたのが、フィリォだった。
1997年、大山館長の死後、館長を襲名した松井章圭氏の打ちだした融和路線によって、絶縁状態だった正道会館と極真会館の交流が開始され、フィリォがK-1のリングに上がることになったとき、最初に手を上げたのは、ほかならぬアンディであった。
当然脳裏には6年前の、あのハイキックの恩讐が深々と刻まれていたに違いない。アンディにすれば、その期間に自分が積み重ねてきたキャリアと技術を全てフィリォにぶつけるつもりもあっただろう。
しかし、歴史は繰り返す。
フィリォを迎え撃ったアンディは、まだ顔面パンチを受けることに恐怖感を感じているらしいフィリォに果敢に襲い掛かったが、逆にその引け目が産んだバックステップに誘い込まれて、カウンターの右のショートフックを浴びてしまう。朽木のように倒れたアンディを見下ろしながら、まだ空手の癖が脱けないフィリォが反射的に残心の構えをとったことさえ、アンディは知ることができなかったに違いない。
ブラジル出身で土俗意識の強いフィリォは、いわばボヘミアンであるアンディとは正反対の存在であると言えるだろう。プロファイターとしてK-1参戦を果たした後も、アマチュアである極真の大会スケジュールを最優先し続け、“生涯極真”を貫こうとするフィリォのドメスティックな生き方は、きっとアンディが生涯希求しながら得ることのなかった「帰属する場所=家」を想起させる。ある意味、アンディのイズムにとっての天敵とも言えるフィリォへのリベンジは、2000年8月24日アンディの逝去によって、永遠に成就しないまま終わった。
事実、死の直前のアンディは父アルトゥールのように、スイスに家族を残して、日本で大半の時間を過ごしていた。1993年結婚した妻イローナとの間には、セイヤ君と名付けられた男の子が生まれていたが、死去の直前には、彼女とも離婚し、日本での永住を目論んでいたという。日本での成功が産んだ巨額のファイトマネーを、スイス政府が税金として徴収することを防ごうとしていたという、極めて現実的な理由もあったという。また、一説には日本にイローナの他に愛する女性がいたという話もある。しかし、表向きの理由が何であれ、その行動の奥底には、家族の安らぎを希求しながら、結局家族という共同体の中に溶け込めない、己のボヘミアン気質との相克があったのではないかと僕には思えてならない。
己の欠落部を探し、その探索に生涯を費やした永遠の放浪者アンディ・フグ。
ともあれ、彼の全ての闘いは終わった。
確かに36歳という彼の年齢が、死には若すぎたと言うのは事実だ。やり残したこと、無念の想いも未だ残っているかもしれない。
確かに業の深い人ではあったと思う。あれだけ失ったもの、奪われたものに執着する気持ちは、きっと誰にでも持てるというものではない。
しかし、それが限られた時間を、人生というリングの上で闘う全ての人の運命でもある。積み残しは必ず出る。それでも、36年という時間を彼が全力で闘い抜いたことだけは誰にも否定できまい。
彼の逝去から3年、K-1を取り巻く環境もずいぶん変化した。
今、彼が後半生の全てを注ぎ込んだK-1のリングは、その歴史が始まって以来の毀誉褒貶の嵐に晒されている。決して、アンディの霊も心穏やかではあるまい。
だからこそ祈らずにはいられない。
アンディの霊よ、いまこそ安らかに。
このささやかな文章が、彼の鎮魂歌とならんことを。
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