2006年内の契約更改交渉

オリックス球団と中村との第一回の契約更改交渉は、12月12日。後に中村が「見舞いにも来てくれなかった」と述べたと報じられる、左手首の手術直後のことである。この時は中村本人が代理人を伴って場に臨んでいる。

第一回交渉では、球団側は2006年の年俸2億円から、統一契約書でのルール内、40%を越える大減俸を中村側に臭わせている。最終的には60%ダウンの年俸8000万円をベースに交渉が進むことになるが、中村は「言いたい事がいえていない」(中村紀洋公式ブログより)状況であり、来年に備えるという理由から、第二回以降の交渉は代理人出席のみとなった。

2006年最後の第四回交渉までに、中村側は以下を球団側に要求した。まず、シーズン成績を公傷とみなして再評価して欲しいということ。40%ルール以上の減俸を飲めないということ。それがダメなら他球団への移籍を考えてくれということ。

中村のシーズンの経緯を考えれば、公傷要求はわからなくない。デッドボールによる出場機会の減少や故障を抱えたままのプレーで成績を残せなかったという主張はありだからだ。しかし、ここで問題なのは「公傷」というのは制度的な問題ではなく、球団が選手のケガに対してどう評価するという、経営者側に委ねられた「裁量」にしか過ぎないということだ。

オリックス球団側は、その裁量を含みおき、中村に8000万円でプレーすることを望んだ。この間、決して放出という選択肢を公式には提示していない。

そして、越年

第四回交渉でも、話し合いは妥結せず、契約交渉は越年となった。そして第五回交渉となった1月9日、中村側は退団を申し入れ、オリックス側は中村の「慰留を断念する」と発表した。中村とオリックスの契約は成立せず、その後第六回交渉において、正式に中村の「自由契約」が確定した。

この交渉において、中村は中村側の事情により、いくつかのミスを犯した。本線はオリックスとの8000万円より高い金額での更改を目指していたようだが、その交渉材料として、移籍による他球団からのオファー(8000万円より好条件を期待)を臭わせてしまった。要するに中村側が「自由契約」を選択肢に加えてしまったことで、「年俸調停」にかけるというチャンスを失してしまったのだ。また「8000万円」提示までの前段階の話し合いが長すぎ、なかなか正式な金額提示に至らなかったことも大きかった。

年俸調停は、球団側・選手側が球団に残ることを前提に、双方の言い分(金額)を調停するものであるが、平行線の話し合いの中で先に「移籍」を持ち出してしまったことが中村側には災いした。実際、調停ということになれば、オリックス側が調停拒否→自由契約になる可能性は高かったが、それでも中村側が残留を前提としているのであれば、統一契約書ルールの大義は中村にあり、球団側もムゲに扱うことはできない。

しかしながら、中村の球団側への態度的な不服と、どうしても譲れない金額的な不服が、この契約をもつれさせてしまったと言う他ない。オリックス側が提示したのは「8000万円 or not」であるが、それでもただ残留を望んでいれば、「8000万円、またはそれ以上」になる可能性があっただろう。実際問題、オリックスは最終的に1億円以上の条件を出したという話もある。

中村にとっては、8000万円程度の年俸をどうしても飲めない理由があったのだ。中村サイドは「数字ではない」と言うが、どうにも数字としか考えられない部分がある。その理由が、自身の金銭問題だ。

【中村の抱える金銭問題】→