前兆
私が台湾プロ野球の取材を始めたのは、リーグが創設されて4年目の1993年のことだ。チーム数が4から6に拡張されたこの年、台湾プロ野球は最初の盛り上がりを見せていた。とは言え、小雨の台北球場などはまだガラガラなものだった。今はもう慣れてしまったものの、黒人の助っ人がユニフォームの背中に漢字の名前を背負っていたり、妙なアナウンスや応援が入ったり、巨人から戻った呂明賜がキャッチャーをやっていてパスボールをしていたりと、なかなかに違和感のある異国の風景に驚いたものだった。
それでも休日のデーゲームや、南にある球場などは大入り満員になることも度々で、一部の人気イケメン選手などは、まるでタレントなみの追っかけがついていた。彼女らはベンチ上段のスタンドで花束を持ってキャーキャー言い、ホームランなど打ってベンチに帰ろうものなら、その花束攻勢に遭うことなどもあった。
その年のオフ、前述の変な漢字名前の黒人選手が、自宅マンションの屋上から転落死する事件(事故)が発生した。死因は薬物服用後、屋上フェンスの手すりを登って…と発表された。
台湾における野球
台湾の野球場に集まる観客層は大人や若者や子供や女の子や老人など、ちょっと見ただけでは日本とさほど変わりない印象があった。野球は一応台湾のトップスポーツで、かつ世界レベルに達している唯一のスポーツなこともあり、国威発揚の意味を込めて国技扱いに近い待遇を受けている部分もある。しかし日本と明らかに違ったのは、当時の台湾人観客は野球をあまり知らなそうだということだ。
台湾は日本とは異なり、野球人口のすそ野がそんなに広いわけではない。プロ野球選手になる人材は、あまり多いとは言えないアマチュアの野球チームのエリートコースを辿ってプロ入りする。すなわちリトルリーグ→高校→大学などというルートだ。
今でこそ野球人口のすそ野が少し広がってきたが、一般の人はそんなに野球に縁があるわけではない。もちろん、野球というスポーツがあることは知っていて、CATVで野球中継があるのも知っているし、ナショナルチームが海外でいい成績を収めたり、今ヤンキースにいる王建民が大活躍していたりすれば大きなニュースになり、みんな喜ぶ。
それでも基本的に野球のルールを知らない。詳しい人は、関係者かコアなファンにまだまだ限られる。野球を知っている人口比率が高いという点では、日本もしくはキューバが世界のトップレベルなのではないだろうか。