「覇権争いの始まり ~一高時代~」

第一高等中学校にベースボールクラブが創部されたのは明治19年のことで、英語教師であったF・W・ストレンジに指導されていきます。校舎移転などにともなって広い運動場を確保し、人気を集め始め、そして「学生野球の父」と言われた飛田穂州曰く「一高の練習とは猛烈といふ事なり」と形容するほどの猛練習によって鍛えられ、一高ベースボールチームは明治21年には先の白金クラブを破り勢いづき、その後、明治24年4月、当時最強とされていた白金・溜池連合チームに10対4と勝利をおさめ、盛んになった対抗戦において、事実上、日本一となりました。その後、この一高ベースボールチームは明治37年頃まで「一高時代」を築きあげるのです。

また、この第一高等中学校からは、様々な影響が産まれていきます。
まず「一高覇権を握る」と報じられたことにより、地方のベースボール熱が大いに刺激され、横浜・神戸などの開港場や、函館、仙台、京都、大阪、山口、長崎、鹿児島などにおいても、ベースボールを研究しはじめるようになります。
その他には、明治27年には一高OBであった中馬庚が日本で初めて「ベースボール」を「野球」と和訳し全国にも瞬く間に「野球」という名前が広がりを見せ、明治29年には日本野球史上、初となる国際試合が横浜居留地の外国人チーム「横浜外人団」と行われ、大方の予想を覆し29対4という圧倒的大差で一高野球部が白星を挙げるなど、この頃の野球界をリードし、他のチームにも決して少なくない影響を与えていくのでした。
また明治30年頃に一時この一高野球部も不振を極めるのですが、この時にチームを立て直すため、これまた日本で初めての夏季練習いわゆる「合宿」を行い、猛練習に猛練習を重ね続けた一高は復活し、「(酷使のため)腕が曲がると桜の枝にぶらさがった」という逸話を残す左腕エース・守山恒太郎を擁し、再び一高時代の復活を思わせたのですが、これ以後、徐々に一高野球部は王座から転落していくのでありました。

「群雄割拠 ~一高時代から早慶時代へ~」

その「一高時代」が幕を降ろすきっかけとなったのが、明治37年6月1日の対早稲田大学戦でした。早稲田は、この試合を9対6と勝利し続く2日にも慶應が一高に11対10と勝利します。これを契機として、球界は官学の「一高時代」から、私学の「早慶時代」へと移りゆくわけです。

この頃の早慶戦では早稲田が13対7、12対8と慶應に連勝。若干の力の差があったようで、明治38年には各チームとの対抗戦の末、早稲田が球界の覇権を握ります。創部4年目での球界の覇権を握るという早稲田の勃興は目覚ましく、そして日本球界では初めてとなる「アメリカ遠征」を行います。遠征で早稲田は26戦7勝19敗と、予想通りの苦戦を強いられ上で帰国するのですが、しかし日本野球界にとっては大きな意味のある遠征となりました。「西欧技術の伝来」です。

このアメリカ遠征で主力選手であった河野安通志、橋戸信らワインドアップ、スクイズ、代打の起用、スパイクの使用など最新の野球技術や用具を習得し、帰国後にこれらを広める一方で、野球におけるプロフェッショナルの存在を知り、のちの職業野球のパイオニアを担うようになります。
帰国後、明治39年から「早慶戦」は再度繰り広げられていくのですが、この年の早慶戦は1勝1敗のタイでの第3回戦が、ファンの熱狂振りを不安視した関係者らによって中止されるという事態を招きます。そして互いにライバルであった早稲田と慶應ですが、この中止を境に早慶戦復活運動もあったのですが、慶應側がこれを承認せず、再び両者が合いまみえるのは、時は流れ大正14年の秋にまでなってしまうのでした。これも野球人気が高かったということを裏付けるエピソードなのかもしれません。

このように「早慶戦」がいったん区切りを迎え日本球界は俄然寂しいものとなるのですが、その空白を埋めるかのように、慶應、早稲田の両校は外国チームを招いて試合を行うようになります。