■主人公と過ごす時間の楽しさ、読後の爽快感・・・小説ってまだまだイケる!
傍若無人で、身勝手な屁理屈をこね回し、なんでもかんでも断定し、それが間違っていてもけっして謝らない。身近にいる人間にとっては、かなりはた迷惑な奴である。
「陣内と仲良し」と永瀬に言われた鴨居が言う。
「例えば、パンの耳が嫌いな子どもがいたとするだろ(中略)。その子は、嫌いなものは最初にやっつけたい性格だから、食パンが出てくるといつも真っ先に耳だけ食べる(中略)。ある日パンの耳を急いで食べるその子を見た父親がこう言うんだ。『そんなに必死に食べるなんて、おまえは、パンの耳が大好物なんだな』。俺の今の気持ちは、まさにその時の子どもの戸惑いと同じだ」
うーん、わかる気がする。ものすごく、巧い!こういう人って、もしかするといるかも。強烈な個性をもっているのに、いるかもしれない、と思わせるのも、著者の人物造型の妙だろう。
ともあれ、そんな「パンの耳」の陣内だが、物語の語り手となる鴨居・武藤、永瀬カップルたちは、彼との過ごす時間を、結局は、こよなく愛している。さらには、少年事件で陣内と出会う少年たちも、彼の起こす奇跡の恩恵にあずかる。なぜ、彼には、こういうことができるのだろうか?
著者は、そのあたりを「謎」のまま残している。その答えに触れないことが、この物語を、説教臭さから遠ざけている。一言で言うと、これが著者の「センス」だと言えるだろう。
だが、無粋を承知で、陣内の魅力を解剖するなら、
彼は、自身が信じること、自身の人に対する思い、自身の怒りに対して、常に誠実なのだ。他から押し付けられたものではなく、自身の決めたルールに対して、誠実なのだ。
盲導犬を連れている永瀬が、バス停で見知らぬ人からの同情を受け、お金を手に握らせたところを目撃し「何で、おまえがもらえて、俺がもらえないんだよ」と怒る陣内には、ちょっと感動させられる。なかなか、こうはいかないもんだ、と。
読者は、物語を読むと言う形でコイツと共に何時間かを過ごすこととなる。永瀬、優子、鴨居、武藤と同じように。
5作目のラストで、永瀬がこう語る。
「歴史に残るような特別さはまるでなかったけれど、僕にはこれが、特別な時間なんだ」
そう、彼と一緒に、無為な時間を過ごしたり、日常で起こる謎当たってそうにもない(結果的にはそうでもないのだが)推理を繰り広げたり、少年たちの予想もつかない言動にあたふたする後輩を眺めたり、そんな時間はとても、楽しい。
そして、読み終わったあとに、自分の頭上に、ぽっかりと明るい空が広がっているような、そんな気分になる。
この気分だけで、まだまだイケるぞ、小説!と快哉を叫びたくなる一冊である。
この本を買いたい!
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