『気遣い喫茶』
この本を買いたい!
■巧拙はともかく、言葉への感覚は独特。この肉感、皮膚感、もし計算なら・・・
いや、偏見というわけではない。ない(いや、あるか、やっぱり・・・)のだが、正直、やっぱり、かなり、驚いてしまいませんか?
グラビアアイドルのさとえりである。さとえりの処女作である。
しかも、しかも、である。芥川賞作家の柳美里が絶賛しているというキャッチに惹かれて、読んでみることにした。ミーハーたるもの、多少気がすすまなくても、突入せねばなるまい。
前半は、詩、後半は、表題作をはじめとするエッセイとも創作とも取れる『気遣い喫茶』『出っ尻男とナス尻女』『水中眼鏡』の3編という構成。
『君が好』と書いて、「君がよ」と読ませ 「女はバカな女だら」と、どこの方言かわからないような語尾を操ったり「溶かせ!!お願いだ、私を溶かしてくれ」「半熟、卵の瞳から甘いドロップ落っことし、キスした」とエロっぽい詩人になってみたり、がわからないような語尾を操ったり、巧拙はともかく、言葉や語彙に対する感覚は、独特のものを持っていらっしゃる。
総じていえば、ヌルっとした皮膚感、ぽってりとした肉感があるのが、この人の「言葉遣い」の特徴であろう。
もし、世間に露出している自分のイメージも計算に入れて狙ってやっているなら、かなりの器用人であろう。
■書くことでココロとカラダのバランスを保つ。それは、「排泄」にも似て・・・
だが、予想に反して(多分)、全編を通じて伝わってくるのは、商業的な意図ではない。
そこにあるのは、「書きたい」という素直にして強烈な欲求である。
いや、もっと言うなら、この人は、書くことによってしか、ココロとカラダのバランスを保っていけるはないかと思う(現在の文壇において、このモティベーションで作品を紡ぎ、支持されている作家の一人が柳美里だと思う。そう位置付けると、柳氏が、この作品を評価する理由がすんなり理解できる)。
極端な言い方をするなら、この作品は、彼女の排泄物であると思う。
「言葉が下手だから文字にする」(「スピード」より)彼女自身は、言葉は、「今は暴力」(『私の言葉』)で表明している。内から外へ、排泄されるものであるという意味では、「暴力」も同義(「暴力」というほどのパワーを感じなかったのは、私が、著者と世代的にかなりズレているからかもしれない)。
ともかく、そういう「出した」ものを、他人様にお見せして、それでいくばくかの収入を得るということに批判的な意見もあるであろう(私もその一人)。だが、あまたの名作の中に、このようなモティベーションで生まれた作品が少なからずあることを否定できる人はそういないのではないだろうか。
また、見せたくてもなかなか見せる場がないはずのものをこうもやすやすと世に出すことができる彼女の立場に対して、黒い羨望を感じる人もいるに違いない(私もその一人)。しかし、そのあたりは、そのあたりは、本作の中でも「気を張り、意地張り、ハリハリ山を歩いている。血が流れても構わない」(「ママごめんなさい」より)と書いているので、ある程度覚悟はできていると思う。
というわけで、肯定的な意見を書いてきたが、きわめて個人的な本音を言うなら、ちょっと違う。私は、この作品だけでは、やはり、彼女のことを「作家」だと呼びたくない。その理由はと言うと・・・