『一九七ニ』
坪内祐三 文藝春秋 1800円
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■メディアに表出した言説の前提にある「1972年」の空気を読み解く
これをお読みの方にお尋ねしたい。
あなたが、覚えている一番古いテレビ・ニュースはなんですか?
私の答えは、決まっている。
1972年の連合赤軍浅間山荘事件である。
山の斜面の小屋に、どでかい鉄の玉が弧を描いてぶちあたる――私は、あのテレビ画面を今でもかなり鮮やかに(画像はモノクロだが)思い出すことができる。また、若き日々の折々に、自分にとってあの事件が「はじめて記憶したニュース」であることを何度か繰り返し、追認してきた。
思想が革命を起こす可能性がある時代が終わった時、社会を認識できる「私」が誕生した――その自覚は、一種の寂寞を伴い、ずっと、今も変わらず、私の内にある。だから、この本の「はじまりのおわり」と「おわりのはじまり」という帯の文句には、かなりぐッと来た。
本書は、『週刊文春』『週刊朝日』なおの一般誌、『中央公論』『諸君!』などのオピニオン誌から『ニューミュージック・マガジン』などの音楽誌など、メディアが事件をどう扱ったかを辿りながら、当時14歳であった著者自身の感じ方やエピソードを交え、1972年に起った事件を考察していくという形式を取っている。いや、正確に言うなら、事件そのものを考察するのではなく、事件を扱った記事の背景にある1972年の「空気」「風」を考察していく。言換えれば、メディアによってしか事件に接しえなかった者、すなわち、もし、あなたが1972年の自分を記憶している人ならば、あなたの視点により近い視点で彼は、1972年に接近しようとしている。
さて、1972年。その年には何が「終わり」「始まり」「終わった」のか?