『ローマ人の物語11 終わりの始まり』
塩野七生 新潮社 2800円
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■ローマ絶頂期「五賢帝時代」最後の皇帝は、本当に「賢帝」か?
欧米史観に反論を試みる
この本の出版予告を見かけるようになると、ああ、今年もそんな季節なんだと思う。年に一回発行、『ローマ人の物語』。ローマ帝国一千年の興亡を描く超大作シリーズも、今年で11巻目。ということは、第一巻『ローマは一日してならず』を読んだのは、もう・・・。時の流れの速さにいささか愕然とする思いであるが、個人的な感慨はさておき・・・。
本書は、紀元2世紀末から3世紀、五賢帝時代の悼尾を飾るマルクス・アウレリウス帝の治世の中心に、その前後が描かれる。五賢帝時代とはどんな時代だったのか。一言で言うと、絶頂期、である。
ハンニバルVSスキピオの対決で名高いカルタゴとの死闘、稀代の英雄で帝政の事実上の創始者であるユリウス・カエサル、初代皇帝アウグストゥスという傑人の出現を経て、世界帝国となったローマは、暴君の出現や内紛といった内なる闘いも克服し、繁栄と安寧を謳歌していたローマ。「哲人皇帝」として後世に知られるマルクス帝は、その呼び名からもわかるように、ユリウス・カエサルやアウグストゥスといった神がかり的な英雄とは一味違う、きわめて「人間的な」意味合いでのシンパシーを集めている人物でもある。当然のことながら、最後ではあるが明らかにローマの輝かしき時代に属する皇帝である。少なくとも既存の史観では・・・。
この常識に、我らの塩野七生は、敢えて反論する。
マルクス帝は、輝かしき時代の最後の皇帝であると同時に衰亡の時代の最初の皇帝でもある、と。
そう、タイトルとおり、彼は、「終わりの始まり」なのだ。
著者は、この転換期のリーダーの「資質」に疑問視ししてるのか。
いや、けっしてそうではない。彼女の視点は、マルクス・アウレリクスという個人の背後にある「何か」に向けられている。その「何か」とは?