桑原茂一さんインタヴュー~Part 4『死ぬのは嫌だ、恐い。戦争反対!』からの続き。
――僕自身が、当時東京に居た訳でないので実体験がないんですけど、時代的に先取りしていたと言える「ピテカントロプス」(写真は、スネークマン・ショーのアルバム『ピテカントロプスの逆襲』)に関して、どういうヴィジョンを持ってられたのでしょうか? クラブ・カルチャーの先駆けですよね。
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クラブ・カルチャーに関しての思いは、この会社なんですよ。だから、クラブキングなんです。「ピテカン」の頃はね、自分達がプラスチックス*(写真は、デビュー・アルバム『Welcome Plastics』)の人達なんかと海外に行く機会が多くなって、当然海外に行けば、クラブに行くわけですね。
*中西俊夫、佐藤チカ、立花ハジメ、佐久間正英、島武実からなるキッチュなアート感覚溢れる、テクノパンク・バンド
クラブはストリートから生まれているグルーブで派生しているから、日本みたいにファッションはファッション、デザインはデザインとかジャンルでカルチャーが分かれているんじゃなくて、向こうはもっとクラブの中でいろいろなジャンルの表現者が集まり、今までなかったものを生み出していく場がクラブだったんですね。
そういうものを自分が見てきていた結果、「なんで、東京にそういう場所がないのか、日本にディスコしかない、水商売しかない。」という思いが強くなりました。水商売を経験しているから、そうでないものがやりたかったのです。
たまたま知人の洋服屋さんが非常にガンガン行っていた時代でもあるんで、「一緒にクラブをやってくれないか?」という話があったんです。自分としてはそういう思いもあったし、そして、一番の願いはメロン(写真はアルバム『Do You Like Japan?』)にありました。当時、自分としてはメロンというグループが、スネークマン・ショーと同じようにかけがいのないものだったんです。
メロンがきちっと活動できる場を作る事であり、それが東京であっても、ニュー・ヨークであっても、ロンドンであっても、同じ次元でみんなが共有できるクラブが欲しかったのです。彼等の「はこ」が「ピテカン」になったのですね。中西君というのは非常に才能のある人だったんで、彼の持っているヴィジョンをできるだけピテカンからも見せていきたいというのもあったし。
一応、私の名義は社長でしたけれど、約束としては「水商売はやらないよ」という事だったんですけど、実質、金出している人達と最終的にはもめていくんですけど。ヒットする、火がつくと、当然もとをとらなければいけませんから、人間、稼げる時に稼ごうと思ってしまうんですよね。しかし、流行ものは、命が非常に短い、文化と呼べないものになってしまうんですね。単純に外でドアマンがガードするのはね、スノッブなだけではなくて、中に何があるかをきちっとコントロールするためなんですね。
それが日本では単なる黒服がいて、かっこつけているだけになっちゃっている。金さえ払えば、誰でも入れるという事になってしまっている。いくら、日比野さんとかがいい個展をやろうが、そこに働いている従業員にそういう意識が芽生えなければ、ただの水商売なんですよ。そこらあたりが、すごい辛かった。
――思っていた形では最後まで、動かなかったわけですね。
そうですね。