第一の事件と第二の事件の間
松の廊下刃傷と吉良邸討ち入りには1年10カ月あり、その間に何があったか、または何があったことにするか、というのが『忠臣蔵』の面白いところです。大石内蔵助は事件前は「昼行灯」すなわちあまり役にたたないといわれる存在でしたが、討ち入り後はヒーローになります。この間の行動を○大人物だった、と、×そんな大した人物ではなかった、という両方の立場から見ると
藩士総登城で開場か、籠城か、殉死かと評議(結局、無血開城)
○ 現実派が離脱しコアなメンバーが残るのを待っていた
× 単なる優柔不断だった
京都に移った内蔵助、祇園で連日遊びほうける
○ 仇討ちをするのではという世間の目を欺いていた
× そもそも遊び好きだった
仇討ちと弟・浅野大学の復権、お家再興嘆願の両面待ち作戦の中、大石内蔵助は討ち入りをためらうような言動を何度も繰り返し、浪士の急進派ならずとも「ホントにやる気なのか?」と疑わずにはいられません。
第二の事件・赤穂浪士吉良邸討ち入り
元禄15年(1702)12月14日の夜(今の時間で午前4時頃)雪の中、吉良邸へ向かった赤穂浪士は大石内蔵助が山鹿流陣太鼓を打ち鳴らしながら……とされていますが、雪もふっていなっかったし太鼓を鳴らすような派手なことはしなかったようですが、それはともかく、吉良を討ち果たしました。世間の喝采をあびる浪士に対し、幕府に死罪を命じられ、立派に切腹したことになっていますが、中には仇討ちを再仕官の手段と考える浪士もおり、必ずしも本願かなった、ともいえないようです。
『太平記』から『忠臣蔵』へ
事件の二ヶ月後には曾我兄弟のはなし(これも仇討ちで有名)として歌舞伎化されますが、すぐに上演中止に。
本格的に芝居になったのは四年後、元禄時代を代表する作家・近松門左衛門作の浄瑠璃『碁盤太平記』、タイトル通り『太平記』の時代のはなしとして構成されます。さらに討ち入りから46年後に『太平記』ベースの設定を引き継ぎ『仮名手本忠臣蔵』ができ、ここで『忠臣蔵』と名付けられます。
武家支配の江戸時代は、赤穂事件そのものを芝居とすることはできないため、『太平記』の形を借りるという手法で、いじめで刃傷・切腹、主君の仇討ちで討ち入りというエッセンスはそのままにその他は違った物語が展開されます。それでも町民はこれは赤穂浪士のはなしである、と認識できるほど浸透していたし、逆にいうとすでに世に広まっていた「伝説」を劇化したのだともいえます。