『忠臣蔵』は、1701~02年に起こった赤穂事件が元で、今年が刃傷事件から300年、来年は討ち入りから300年の節目です。事件後、浄瑠璃、歌舞伎、芝居、落語、浪曲、講談、小説、映画、ドラマ、果てはオペラなどで劇化されることにより、多くの人が知っているけど、どれが史実でどれが脚色なのかはわからない複雑なフィクションとなりました。
赤穂事件がどのように『忠臣蔵』となっていったのか、歴史を振り返ってみましょう。
第一の事件・浅野内匠頭・江戸城松の廊下で刃傷
元禄14年(1701)3月14日、播州赤穂藩主で勅使接待役を命じられていた浅野内匠頭長矩は、接待の指南役高家吉良上野介義央に、江戸城松の廊下に斬りかかったが制止されて目的を果たせませんでした。事件に対する幕府の裁定は、内匠頭は切腹・浅野家は断絶。一方、上野介はお咎めなし。浪人となった赤穂藩士はこの裁定を不当と考え、翌年の吉良邸討ち入りにつながります。
この裁定にはふたつのルールが絡んでいます。
ひとつは江戸城で刀を抜くのは厳禁。このルールから内匠頭と浅野家に対する処置がなされます。もうひとつは武家のルールで「喧嘩両成敗」。喧嘩が起きた場合、双方に責任があるというもので、喧嘩だから上野介にも責任があるのではないか、というのが裁定不当の根拠です。
果たして刃傷事件は喧嘩なのでしょうか。一般に信じられているところでは、朝鮮勅使(今でいうと親善大使団)接待のため礼儀作法の先生であった上野介が生徒の内匠頭をいじめて、それに対してキレて斬りかかったという経緯から喧嘩である、ということになっています。しかしそれは当時の江戸町民のウワサや後の劇化でついたイメージで、実際にそれを証明する資料はありません。
喧嘩を示唆するのは斬りかかった時に「この間の遺恨、覚えたるか」と内匠頭が叫んだことだけで、「遺恨」てなに?というのははっきりしません。
内匠頭には持病の「癪」(黄門様一行の前で娘が苦しんでいる病気、ストレスやヒステリーに起因する)があり、また弟・浅野大学が「短気で怒りっぽい」と語っていることからも、お役目のプレッシャーによる発作的凶行ではないか、という考え方が主流になっています。