「キレる」のは少年少女ばかりじゃない
14歳の同級生が連続通り魔事件を起こしたという設定の『エイジ』では、少年鑑別所へ送られたその印象薄い同級生の衝動を、主人公が想像で追体験して「キレてみる」。
「キレる」っていう言葉、オトナが考えている意味は違うんじゃないか。我慢とか辛抱とか感情を抑えるとか、そういうものがプツンとキレるんじゃない。自分と相手のつながりがわずらわしくなって断ち切ってしまうことが、「キレる」なんじゃないか。
体じゅうあちこちをチューブでつながれた重病人みたいなものだ。チューブをはずせばヤバいのはわかっているけれど、うっとうしくてたまらない。(中略)キレたい。あとで結び直してもいいから、いまは、ぼくにつながれたものぜんぶ切ってしまいたい。
(『エイジ』より)
いつでも自分が「少年A」になれてしまう(『エイジ』は朝日新聞連載中に「酒鬼薔薇事件」が起き、作者はその渦中で書き続け、単行本化の際にもかなりの加筆修正をした)。そして、「社会人・家庭人」である私たちも、あぁ、あの頃そんな爆発寸前の感情を抱えていたと懐かしく思い出す一方で、今でも、いつでもひょっとしたらこういう衝動に駆られることに気付かされてしまうのだ。
また、『ナイフ』収録の表題作「ナイフ」では、体格に自信のない父親が、強烈ないじめを受ける息子の姿を見て、小指ほどの長さのおもちゃのようなサバイバルナイフを露店で購入する。
「これで、人、殺せるかな」
(『ナイフ』より)
文中で何度も繰り返される「けれど、私はナイフを持っている」は、電車の中で、会社で、駅のロータリーにたむろするいじめ連中の前で、父親のコンプレックスを補完し、悲痛な勇気を奮い立たせる。
ぼくの名はエイジ。東京郊外・桜ヶ丘ニュータウンにある中学の二年生。その夏、町には連続通り魔事件が発生して、犯行は次第にエスカレートし、ついに捕まった犯人は、同級生だった―。その日から、何かがわからなくなった。ぼくもいつか「キレて」しまうんだろうか?…家族や友だち、好きになった女子への思いに揺られながら成長する少年のリアルな日常。山本周五郎賞受賞作。
「悪いんだけど、死んでくれない?」ある日突然、クラスメイト全員が敵になる。僕たちの世界は、かくも脆いものなのか!ミキはワニがいるはずの池を、ぼんやりと眺めた。ダイスケは辛さのあまり、教室で吐いた。子供を守れない不甲斐なさに、父はナイフをぎゅっと握りしめた。失われた小さな幸福はきっと取り戻せる。その闘いは、決して甘くはないけれど。坪田譲治文学賞受賞作。
強烈なリアリティーと、葛藤の向こう側
決して難解ではなく、むしろ平易でリズミカルな筆致。この「軽さ」をもって、重松作品は強烈なリアリティーを読み手に印象付ける。登場人物に似た人がきっと実在すると確信させる、フィクションを超越したリアリティーである。重松は、人間を本当に見ている。知っている。どの登場人物にも、あなたの知る「誰か」の片鱗がある。
そして、どの題材もどこかに重さや影のあるものであるにも拘らず、どの作品にも葛藤の向こう側にある光を感じさせて、その物語を結ぶのである。人間を知っているからこそ、破滅を書かない。人は生きていかなくてはならないから。
それが「家族」を持つもののコミットメント(責任でも義務でも拘束でも到達目標でもいい)であり、これから成長する少年少女たちのたくましさでもある。また、ハリウッド映画のようなハッピーエンドにも終わらない。あくまでも「葛藤の向こう側の微かな光」で終わるのだ。
人間を見て、知って、信じているからこその重松の救済に、よき意味での「大衆」家族小説の良質さを見る。人は人をいじめる。傷つける。それを事実として重松は受け止め、描く。しかし人は安易に死んではいけない。殺してはいけない。たとえどんな問題やトラウマを抱えようとも、生きることとはすなわちコミットメントなのだから。
東京から、父のふるさと、瀬戸内の小さな町に引越してきたヒロシ。アポロと万博に沸く時代、ヒロシは少しずつ成長していく。慣れない方言、小学校のヤな奴、気になる女の子、たいせつな人との別れ、そして世の中……。「青春」の扉を開ける前の「みどりの日々」をいきいきと描く、ぼくたちみんなの自叙伝。
名前はきよし。君によく似た少年。言葉がちょっとつっかえるだけ。話はある聖夜、ふしぎな「きよしこ」との出会いから始まる。たいせつなことを言えなかったすべての人に捧げる、少年小説。
「今の自分に足りないものはトラウマだ」と思い込んだ高校生・優は、トラウマづくりのため死んでもいない同級生の墓をつくった――。「かっこ悪い青春」を描いた、著者のデビュー長編。