F1/F1(フォーミュラ1)について

トヨタF1撤退、10年間の戦いに幕(2ページ目)

世界の巨人、トヨタがF1からの撤退を表明した。2002年から参戦し、一度も優勝を遂げることなくF1から撤退を余儀なくされたトヨタのおよそ10年に渡る戦いの記録を振り返る。

辻野 ヒロシ

執筆者:辻野 ヒロシ

モータースポーツガイド

ル・マンの悔しさがF1へトヨタを駆りたてた

ラリーの最高峰「WRC」からの転身をはかったトヨタだが、自動車メーカーとしてはF1に参戦することで、欧州でのプロモーションを強化し知名度とシェアを拡大したいという目的があった。しかし、トヨタをF1に駆り立てた要因の一つとして「ル・マンでの敗北」は忘れてはならないだろう。
1992年のル・マン24時間レースに参戦したトヨタTS010。当時のF1と同じ3.5リッターNAエンジンを搭載し、耐久レースを戦った。この当時からトヨタのF1進出の噂があったが、まずはル・マン優勝というタイトルがトヨタはどうしても欲しかった。前年の91年にはマツダが日本車として初の優勝を成し遂げていただけに、トヨタのル・マンにかける情熱は並々ならぬものがあった。
【写真提供:Toyota Motorsport】
トヨタは80年代からル・マン24時間レースなどのスポーツカー耐久レースに参戦。ワークスマシンを送り込み、出場車の規定がGTマシンになってからもル・マンの制覇に向けて力を注いだが、トヨタの優勝の夢は何度もあと少しのところで崩れ去っていた。トヨタがF1への参戦に際し、エンジン供給だけに留まらず車体も製作する「フルコンストラクター」という資金も労力も必要な体制をあえて選んだ背景には、ル・マンへの挑戦から続くプライドが見え隠れした。

2002年にデビュー! いきなりの初入賞を果たす

2001年、参戦を前に鈴鹿でテスト走行を行う初代トヨタF1カー、TF101
【写真提供:Toyota Motorsport】
2000年からスタートしたマシン、エンジンの開発だが、予定から1年遅れた2002年にようやくトヨタF1チーム「Panasonic TOYOTA Racing」はF1のグリッドに並ぶことになった。

その開幕戦となったオーストラリアGPでミカ・サロが6位入賞を果たし、初年度の目標であった「ポイント獲得」を早くも達成する。しかし、初年度のマシンTF102は信頼性に乏しく、シーズン中盤はリタイアが続き、ポイント獲得は僅か2回に留まってしまう。
2002年にフル参戦を果たしたトヨタのF1カーTF102。写真はフランスのポールリカールでテストをする高木虎之介。当時彼はトヨタが参戦した北米のレース、CART(チャンプカー、現在はインディカーと統合)に参戦していた。
【写真提供:Toyota Motorsport】


2003年はドライバーラインナップを一新!

F1参戦2年目の2003年はそれまでのミカ・サロ、アラン・マクニッシュのドライバーラインナップを一新し、優勝経験のあるベテランのオリビエ・パニスと米国チャンプカーでチャンピオンを獲得したクリスティアーノ・ダ・マッタが起用された。このラインナップの変更は参戦に向けた開発計画が終了し、いよいよトヨタF1チームがレースをする体制に入ったことを示すものだった。
2003年のドライバーラインナップ。左からパニス、ダ・マッタ、そしてリカルド・ゾンタ。
【写真提供:Toyota Motorsport】
2003年は序盤こそ苦しい戦いが続いたが、シーズン後半のドイツGPではパニス5位、ダ・マッタ6位のダブル入賞を実現するなどの活躍を見せた。また地元の日本GPではダ・マッタが7位入賞を果たすなど、初年度に比べて着実な進化を遂げたのであった。

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