「天才的な革命児で威圧感があり、近寄りがたい人物」といったところでしょうか。確かに信長は天才だったかもしれませんが、負けに学び、常に考え続けた武将でした。先に天下人となった三好長慶のやり方などもよく学んでいました。
この信長の時代に普及したのが鉄砲で、今でいえばITです。信長は鉄砲を活用することで、弓や刀の戦いを根本的に変えてしまいました。IoT、フィンテック(金融+IT)、人工知能(AI)など企業を取り巻く環境が劇的に変っていくのは戦国時代とよく似ています。ITという鉄砲をどう事業にいかしていくのか信長のように考えましょう。
農繁期も戦える組織を作る 兵農分離
信長が行ったのが農家の二男、三男のヘッドハンティング。農家の相続では長男が田畑をまるまる相続します。兄弟で田畑を分割すれば、どんどん細分化され効率が悪くなり共倒れになるからです。昔は家長制度があたりまえでしたので二男、三男は長男をボランティアで手伝う存在でした。そんな二男、三男を兵として雇います。農作業との兼業は禁止のフルタイム勤務になります。また当時は傭兵もいましたので給与を与えて雇います。現在の非正規社員のような存在です。
命令があれば雇った武将や兵は、家族や下人までも全て引き連れて移転することが求められました。つまり全国転勤です。また兵は城下町に住むことが求められました。今でいう社宅住まいです。安土城の弓衆の家で火事が起きた時に単身で暮らしていて妻子が引っ越していないことが判明。家族がいないから家の管理ができないのだと信長は判断し、織田信忠に命じて尾張に残っていた妻子の家を焼いてしまいました。
織田信長は農繁期も戦える組織を作り、槍隊、鉄砲隊などの機能別組織を作り、訓練し専門化していきます。
重商政策 兵士の給与を市場から稼ぐ
兵を雇うにはお金がいります。織田信長の父親、信秀の時代から重商政策をとっていました。海運などで栄えていた津島港、甚目寺の門前市として栄えた萱津から矢銭を徴収します。いまでいう消費税です。また足利義昭を奉じて上洛した時に足利義昭から副将軍にしてやるという話を断り、堺、大津、草津に代官をおくことで物流をおさえます。また関所の撤廃を行います。関所といっても箱根の関所のような入出国管理ではなく、関銭(通行税)をとるための関所です。淀川では一時期、関所数が380を超えたことがあります。また伊勢街道の桑名・日永(ひなが:四日市市)の間、わずか15キロの間に60余の関所があり輸送業者や商人に深刻な影響を与えていました。
また領内の主要道路を三間幅にし、これにより輸送コストと輸送時間を下げました。これで流通ルート(チャネル)が整備され、都市へ商品が円滑に流れ、商品取引の拡大を促しました。豊臣秀吉が高松城を水攻めしている時に”本能寺の変”の急報を受け、”中国大返し”を行いますが、秀吉は高松城攻めの総仕上げを信長にお願いしていました。道路整備を重視する信長に見せるために高松城までの街道を整備していたから、中国大返しが実現できたのではという説があります。
参入障壁を撤廃
室町末期には既得権の弊害が目立ち始めます。地域を統括する寺院が市を運営しましたが、商人が出店する場合は営業権を取得し、納入金を払う必要がありました。また座は生産、販売の独占権を持ち、加入する場合は株(今でいう会員権)が必要でした。六角氏などが実施していた楽市・楽座を学び、信長も誰でも商売ができるようにし、自由競争としました。ただ領土全体で楽市・楽座をやったわけではなく、都市育成政策の一部でした。最初は岐阜で行い、基本的には規制緩和で、今で言う特区のようなものでした。これで既得権のある商人ではなく才覚があるもの、工夫するものが伸びることとなり、近江商人等が登場していく土台になっていきます。
ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、岐阜のにぎわいを「バビロンの如し」と書簡にしたためています。彼の記述によれば、当時の「岐阜」の人口は、約1万人で活気あふれた街だったそうです。
信長は領内の安全の確保を行い、様々な特典を商人に与えることによって都市を発展させ、これを商業の発展につなげました。最終的には信長の財力がアップし、兵に支払う給与の財源ができ、「天下布武」を実行していく上での原資となりました。
次は「武器性能を向上させるために鉄砲(IT)に目をつける」です。