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江戸の頃から橋と花火と隅田川(歴史編)(2ページ目)

隅田川花火大会と呼ばれるようになったのは意外にも30年前。江戸時代から両国の川開きとして親しまれてきたその歴史を昔の写真を交え振り返ってみました。

執筆者:妹尾 みえ

毎晩上がった江戸の花火

江戸時代の子どもたちも線香花火で遊んだ?

江戸の頃、旧暦5月28日から8月26日まで、納涼シーズンであれば花火は毎晩。
今のような公の花火大会があるわけではなく、舟を出した大名や豪商などが、花火師にあげさせたからです。

余談ながら、日本で最初に花火を見たのは、徳川家康だと言われます。大名の庭では納涼を名目に花火が楽しまれるようになり、庶民が見物することもあったようです。もちろん、当時は今のような派手なものではなく、その多くは、筒から火の粉を吹き出すだけだったのではないでしょうか。それでも、真っ暗闇の中では、十二分にエキサイティングな見世物でした。

『紫の一本(ひともと)』(戸田茂睡 1682)という随筆にはこう記されています。

「しだれ柳に大桜、天下泰平文字うつり、流星、玉火に牡丹や蝶や葡萄に火車や是は仕出しの大からくり、提灯、立傘御覧ぜよ、火うつりの味わい仕ったり」

文字うつりというのは、紙にまいた硫黄を燃やして文字を浮き上がらせる仕掛けです。また流星とは、いわゆるロケット花火のようなもので、尾を引いて空中に上がっていきました。
現在からすると「大からくり」にはほど遠いかもしれませんが、火薬を詰めた筒を工夫して、いろいろに楽しませていたことがわかります。

また、町には花火売りも現れ、手牡丹と呼ばれる線香花火や、ねずみ花火の類を庶民も楽しむことがあったようです。

浮世絵を見ると、両国橋の上は人が鈴なり。江戸っ子は物見高いとは言え、昔っからみんな花火が好きなんだなぁ~と、ビックリしたり、感心したり。

しかし、この大混雑が悲劇を招いたこともありました。

両国橋が知る悲しい歴史


現在の両国橋は、関東大震災後の昭和7年(1932)に架け替えられた

両国橋が架けられたのは、江戸の大半を焼き尽くした明暦の大火直後の万治2年12月13日(1659)。
千住大橋に続き、隅田川に架けられた2番目の橋でした。
名前も、東の武蔵国と西の下総国、2つの国をつなぐことから両国橋と呼ばれるようになりました。

江戸東京博物館で、当時の様子を再現した模型を見ましたが、それはもう大変なにぎわい。長さ171メートルという立派な橋には人が行き交い、袂はお祭りのようです。

何度か架け替えられ、その都度、花火を見つめてきた両国橋ですが、明治30年(1897)には悲しい事故も起きています。花火大会に押し寄せた群衆の重みで、10mにわたり欄干が陥落。大勢の命が犠牲になりました。

以後、両国橋は木の橋から鉄橋になりました。

参考までに現在の隅田川花火大会がらみでよく登場する橋を、上流からご紹介。意外に(?)昭和初期の橋が多いんですよ。

○桜橋 (さくらばし)
 昭和50年(1985)完成の新しい橋。X型のデザインが面白い、隅田川でただ一つの歩行者専用の橋。

○言問橋(ことといばし)
 昭和3年(1928)完成。 『伊勢物語』『古今和歌集』におさめられた在原業平(ありわらのなりひら)の隅田川にちなむ歌「名にしおはばいざこと問はむ都鳥 わが思ふ人は在りやなしやと」からとられた。

○吾妻橋(あづまばし)
 1774年、隅田川5番目の橋として、町人からの申し出によって架けられる。現在の橋=昭和6年(1931)完成。 明治期に入るまで「大川橋」と呼ばれた。

○駒形橋 (こまがたばし)
 昭和2年(1927)完成。橋の袂にある「駒形堂」(現在、駒形公園にある)から名づけられた。昔の人は、「こまかた」と濁らず発音したとか。

○厩橋(うまやばし)
 明治7年(1874)完成の隅田川で6番目の橋。現在の橋=昭和4年(1929)。幕府ゆかりの米蔵が建ち並ぶ蔵前に、厩舎があったことから。

以下、蔵前橋、両国橋・・・と続きます。

そしてこの両国橋のそばで花火を支え続けてきたのが、柳橋の料亭でした。

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