豪華な江戸文化たっぷりの金地院を知るためには・・・・。
南禅寺の門をくぐる前に南側に金地さんの門があります。 |
今回ご紹介する金地院は、南禅寺の12の塔頭の1つで、開創は、応永年間(1400年頃)に北山の鷹ヶ峯に創建されました。その後、現在の地に移ったのが慶長10年(1605年)。南禅寺住持になった以心崇伝(金地院崇)が、この地に移建して塔頭となりました。
金地院を見学していただく前に、以心崇伝と言う人物について少し触れておきます。この人物の事を知ってから金地院の建築や石庭などを見学すると大変納得いく事ばかりです。
彼は、足利将軍家家臣の一色秀勝の子供で、1573年に足利幕府が滅亡し、秀勝が没落したため、南禅寺に引き取られます。その後、金地院や醍醐寺、三宝院で学び福厳寺や禅興寺、さらに建長寺などの住職となります。そして、1605年(慶長10年)に南禅寺の270世住職となります。
1608年に徳川家康の命により駿府に赴き、外交事務の担当をするようになり、やがて幕政にも参加するようになります。1612年から、京都所司代・板倉勝重と共に寺社行政に携わり、キリスト教の禁止や、寺院諸法度、幕府の基本方針を示した武家諸法度、朝廷権威に制限を加える禁中並公家諸法度の制定などに関係しています。豊臣家との戦いである大坂の役の発端にもなった方広寺鐘銘事件にも関与してきます。
1619年には僧録(※1)となり以後、金地院僧録は崇伝の法系に属する僧で占められました。南禅寺(金地院)と1618年(元和4年)に建立した江戸の金地院とを往還しながら政務を執り、黒衣の宰相と呼ばれたそんな人物です。
※1
五山・十刹(臨済宗で、五山に次ぐ寺格の10の寺院。)以下の禅宗寺院の管理と、その人事をつかさどった僧職。
さて、この崇伝という人物を頭に置いて、次は、「小堀遠州作の豪華な石庭」と「特別拝観の方丈の中」のご紹介します。