気楽に立ち寄れる沖縄市のまちかど資料館「ヒストリート」 |
そのコザの真ん中「パルミラ通り」に、沖縄市の戦後をテーマにしたまちかど資料館「ヒストリート」があります。沖縄市役所の史誌編集担当が長年にわたって収集した戦後の生活雑貨や写真などが展示されており、コザの歩みが一目で分かるようになっています。
Aサインバーの雰囲気をリアルに再現しています |
カウンターには、アメリカ時代のウィスキーやコーラ、ビール瓶、あるいは米軍兵士たちが残していったサイン入りのドル札など、当時を感じさせるモノたちが所狭しと並んでいます。
コザとアメリカとの関係がしのばれる展示コーナーもあります |
基地が作った街・コザ
沖縄市の人口は約12万人。世帯の構成員数は平均約3人と、核家族化が進んでいるようです。また、沖縄市は卸小売業、サービス業が中心で、第3次産業の割合が約77%を占めます。沖縄市の面積の約36%は、極東最大の米軍基地「嘉手納基地」が占めているのですが、この嘉手納基地は米国によるアジア戦略の重要な拠点です。
ヒストリートには当時のB円なども展示されています |
米兵がもたらすドルやB円でコザの経済は飛躍的に発展し、那覇より垢抜けた都会といわれた時代もありました。アメリカ兵の落とすドルでなりたつ新興都市には、色んな地域から人がやってきました。つまりコザは「基地が作った街」なのです。
でも、その一方でコザの人たちは自らの意思を明確に示しました。それが「コザ暴動」です。
1970年12月20日、米軍兵士が起こした交通事故をきっかけに、日ごろ飴とムチの政策で経済をコントロールされ、また、米軍支配という軍事優先政策によって差別されてきた住民の不満が爆発したのです。
当時のコザには白人街と黒人街が存在し、飲食店や風俗店もはっきりと分けられていました。アメリカの人種差別社会が沖縄にも持ち込まれたわけです。
コザ暴動はとても規模の大きなものでしたが、ケガ人・逮捕者は出たものの日米ともに亡くなった人はいません。暴動を起こしたコザの住民たちは人に対しては暴力を振るわなかったからです。また、黒人の車にも手をつけていません。
コザ暴動の2年後に沖縄は日本に復帰、また、その2年後の1974年に、コザ市は隣の美里村と合併して沖縄市になりました。以後、コザという地名は存在しません。しかし、旧コザ市に住む人たちは、愛着と誇りを持ってこの街を今も「コザ」と呼んでいます。