京大の英語を見ると望まれている生徒像が見えてくる
京大の英語の問題は、ある意味で時代に逆行した問題と言える。文部科学省が提唱する口語英語や、国際社会で使える英語に真っ向から異論を唱え、じっくり内容を読み込み、それを内容にふさわしく、いかに表現していくかを聞いてくる。かたくなにそのスタイルを崩していない。また、受験者に対して、特に平易な単語の訳語を文脈からいかにふさわしく訳出するかという表現力を見出そうとしている。つまり、難しい部分をいかに論理的に考察し、自分なりの解釈をしているかを見ている問題が多く出題されている。極端な言い方をすれば、問題によっては関西弁で訳出するようなことも許されるのが京大の英語である。
これは大学で行われている授業の形態にも現れている。東大は多読中心の授業が多く、一回の授業で数十ページの外書購読は一般で、また内容を議論することが多いが、反対に京大は精読中心で、授業の進度は比較的遅い場合が多い。
秀才を求める東大と天才を模索する京大
異論があるだろうが、私自身の指導経験から見た大学が求める生徒像はこれだ。京大は個性的な人材を求めている。だからちょっと信じられないような難問が出てくるが、奇問でなない。実によく考えられた良問で、じっくり読み込んでいないと答えられない問題が多い。正直な話、東大の数学は全問正解できても、京大で全問正解できる教員がどれほどいるだろうか。たとえ、解答できても証明方法がもっと簡潔で合理的であればあるほど評価されるのが京大である。ここでも思考プロセスを重んじる京大独自の問題の特徴がよく現れている。