今回の行き先は、【滋賀】 『功名が辻』の舞台、秀吉が築いた長浜 |
前回は岐阜城を取り上げましたが、今回は豊臣秀吉が城を築き、後に山内一豊が城主となる近江の国(今の滋賀県)の長浜をご紹介します。
※画像は2002年5月に撮影したものです。
豊臣秀吉が初めて城主となった長浜城
琵琶湖のほとりに立つ長浜城歴史博物館。1983年に再建された天守閣の上からは琵琶湖や長浜市街を眺めることができます。 |
北近江を治めていた浅井氏を滅ぼすのに功を上げた豊臣秀吉(当時は木下秀吉)が、織田信長からもらったのが琵琶湖の東岸に位置する北近江12万石でした。
秀吉は今浜という場所に目をつけ、1573年に城を築くと同時に街の名前を長浜と改めました。これが秀吉にとって初めての自分の城。城を持つと同時に苗字を「羽柴」に改名しています。北陸にも京の都にも美濃へもつながる交通の要衝となると見込んだ秀吉の思惑どおり、城下町として長浜は発展します。
本能寺の変で信長が命を落とし急展開する戦国時代の中で、長浜城の城主は柴田勝豊に変わるもののすぐに秀吉が奪い返す形に。賤ヶ岳の戦いの後、山内一豊が長浜城城主となり6年間長浜を治めることになります。
山内一豊の後は、内藤信成、内藤信正が治めますが、豊臣氏が徳川氏に滅ぼされた後、1615年に廃城。壊した城の資材は、彦根城を作るのに流用されました。
今の天守閣は長浜市民の熱意と寄付金により、1983年(昭和58年)に長浜城歴史博物館として建てられたもので、天守閣に登ると琵琶湖や長浜市街を眺めることができます。
北国街道の宿場町として栄える
「北こく道」の刻印がある石標。長浜は北国街道の宿場町として栄えました。当時の面影が今でも街の中に残ります。 |
北国街道が通っていた道には今でも江戸時代の街道筋の味わいが残ります。1900年(明治33年)には街道筋の一角に第百三十銀行(後の明治銀行)長浜支店が開業。この建物が黒の漆喰を塗った壁の洋風土蔵造りだったことから、いつしか「黒壁銀行」と呼ばれるようになりました。
北国街道の街道筋に作られた「黒壁スクエア」。江戸時代の街並みの中に、ガラス工芸など個性的な店が揃う観光スポットです。 左上:壱夜門、右上:安藤家屋敷 左下:きんつばのお店「芋平」。「さつま芋きん」がお薦め。 右下:黒壁五號館/札の辻本舗 |
「黒壁銀行」は昭和の金融恐慌で倒産してしまいますが、建物はその後も教会などに使われる形で残りました。時の流れで壊されることが決まりかけた時、街の有志たちが声を上げ、北国街道の街並みと長浜独特の黒壁を活かした観光スポット「黒壁スクエア」が立ち上がります。
「黒壁銀行」は黒壁スクエアのシンボルとも言うべき「黒壁ガラス館」として再出発。3万点にも及ぶ世界中のガラス製品を集めて展示・販売する場所に生まれ変わりました。黒壁スクエアには他にも多種多彩なお店が集まっていて、江戸時代の街並みを楽しみつつショッピングや食べ歩きも楽しめます。
さて長浜には、もう一つ歴史に誇れるものがあります。いったい何でしょう?次ページに続きます。