実際、地上波のテレビ番組やインターネット上には「高学歴至上主義」をあおるような番組が多く、いつの時代も一定の聴衆の注目を集めるテーマであることだけは間違いない。高学歴を得ることが、有利な職業選択や高収入の近道であり、高学歴を目指す道中に得られるプラス面はあるものの、マイナス面はないのか? 高学歴のライフサイクルコスト(一生涯にわたる費用。以下、LCC)と合わせ、分かりやすく整理する。
誘惑の多い思春期で、高学歴の実現は難しい
LCCの意味は、製品やプロジェクトなどが生産されてから廃棄(終了)するまでにかかる総コストのこと。LCCを考えることで、より長期的な視点で最適な選択や計画が可能になる。この考え方を人生計画に応用することができる。例えば、高学歴を目指した人にとって、それは人生前半の大きなプロジェクトの1つであったはずだ。実際は本人が意識するよりもずっと早く、本人の親が立てた計画であったのかもしれない。まじめに努力ができて好成績を取る子どももいるだろうが、努力を続けることが難しく、誰もが効率的な学び方を習得できるわけでもない。
相対的な比較優位を競うのが高学歴獲得競争の性質であることから、他人と競争することはストレスになりやすい。それも思春期にはさまざまな誘惑がある中で、高学歴を実現することは容易なことではない。ゆえにプロジェクトを成功させるために無理をする人も少なくないことだろう。
すべてが中途半端になる子どもが多い?
まれに充実した部活動や、友達との交流をしながら成績優秀な人もいる。しかし、すべてが中途半端になり、バランスを欠いた思春期を過ごす子どもも多いのではないだろうか。実際、筆者もその1人であった。つまり高学歴を目指したこと、いわゆる高学歴を「得る前のコスト」はかなりの負担だったということだ。一方、その時期にどれほどの機会の損失があったかと冷静に分析することは、あまりしないものだ。筆者が自身を振り返ると、当時、長期的な視点で最適な選択や計画を立てるLCCの発想が十分にあったかというと、かなりあやしいと言わざるを得ない。さらに言えば、高学歴を「得た後のコスト」については、高学歴獲得競争のさなかには、全く考えていなかったというのが正直なところである。
つまり、これまでは高学歴を「得る前のコスト」ばかり気にしていた。しかし、人生を先に進めてみて、実は高学歴を「得た後のコスト」の方が、実に多様で大きいということに気付くようになったのだ。
大手企業を短期間で辞める若者も……
高学歴であることが優良企業に入るための条件であるとみなす人は多いのだろうか。実際、日本を代表する大手企業は長年にわたり就職人気ランキング上位を占めており、入社する新卒学生は総じて高学歴であることも事実である。誰もが知る有名企業は確かに好待遇であり、会社も経営が安定しているから将来にわたって安心だというのは、親の視点で見れば分からなくもないだろう。しかし、せっかく入った大手企業を短期間で辞める若者は決して少なくない。
30年前、実は筆者もそうだった。安定した未来へのチケットを得たとしても、それを簡単に捨てられるようなタイミングは、多々あるからである。誰しもやりたいことがあるものだ。いずれ目の前の霧が晴れて、自分の進みたい道ややりたいことが分かることは、誰にでも起きうることなのだ。
高学歴は「保険」になりうるのか
もちろん大企業に入れたことで、安心しきってしまう人が一定数はいそうだ。比較優位で満足するのも、別に悪いことではない。いつの時代にも、安定しているから公務員になりたいと考える人は一定数いる。高学歴の方が、難易度の高い国家資格(弁護士、医師、公認会計士などを代表に)に合格しやすいのも事実である。要は高学歴を獲得する競争をしている過程で、自らの能力開発ができることもある。もちろん高学歴を得たとたんに努力することを辞める人も少なからずいるので、高学歴=優秀かというと、異論があるので注意は必要だが。
高学歴の国内トップに立つ東京大学の出身者が、社会に出て必ずしも成功しているとも限らないことは明らかだ。東大生は使いにくいという声もある。対人関係を構築する力、コミュニケーション能力、そして本人の人格や体調管理などが大切なことに異論はないだろう。つまり、高学歴であるだけでは全然だめなのだ。みんなそれは分かっているが、それでもやっぱり高学歴を過剰評価しがちなのではないだろうか。
日本ではよく保険商品が売れるというが、確かに日本人は何事にも保険を掛けることが好きな国民性であるのかもしれない。慎重で、失敗することが嫌なのだろうか。もし高学歴であることを人生の保険ととらえるならば、あった方がいいという発想になりそうだ。しかし、高学歴で「損をしている」、損まではしていなくても「少なからずコストが発生している」となればどうだろう。
優秀な人にしか分からない苦労も
高学歴であることにはプラス面もあるが、実はマイナス面もある。それを高学歴であることの長期的・総合的コストととらえてみよう。例えば高学歴の象徴的な存在として、再度東大生を例に出したい。10代後半に優秀な成績を達成して東大生となった人物には、生涯常に東大生であることが期待されてしまう可能性がある。しかし、「東大生の割に頭が悪いね」「仕事ができないね」というような、心無い言葉を浴びせられることがあるのだ。
本人は、十分頭がよくて、仕事もできているかもしれないのに、周りからの羨望や妬みの対象になり、意地の悪い評価にさらされることもあるのだ。これは高学歴者に共通した悩みではあるが、多くの人は、そうしたプレッシャーをはねのけて、自らの貢献度を維持しようと努力しているのかもしれない。
加えて高学歴を獲得した人の多くは、周りの競争相手が自分と似たような高学歴ばかりとなりがちだ。その世界は常に競争が激しいからストレスが多くなる。より難易度が高い仕事や役割が回ってくることもあるだろう。人生の出来事には、勝敗が多々あるので、高学歴であるほどさまざまな勝負に負け、損をすることが多くなるかもしれない。そうした失敗をバネにして成長できる人もいるが、自信を喪失して悪循環に入ってしまう人もいるだろう。優秀な人にしか分からない苦労などがあるかもしれない。
人生中盤から後半に向けては……
実際、高学歴を背負って生きていく人にとって、高学歴のプラス面を活かしながらも、人生中盤から後半に向けては高学歴のマイナス面と向き合い、乗り越えていくことで、長期的・総合的に見れば、「収支」はほぼトントンであるというところに落ち着くのではないだろうか。高学歴至上主義がはびこる世の中は嫌なものだと筆者は考えている。高学歴者だからといって下手に注目され、嫉妬の対象となることもある。逆に高学歴ではないことを引け目に感じ、高学歴を過剰評価するケースもあるかもしれない。
社会にはさまざまな分野で活躍するプロや一流の人々が多数いて、その多くは高学歴とは限らない。特に芸能やスポーツの世界では学歴を気にすることはないのではないか。もう10代に取り組んだ勉強の結果に過剰に注目することをやめるのが賢明だろう。








