例えば、「胸をなで下ろす」「胸をふくらませる」「尻を叩く」「尻に火がつく」「尻毛を抜く」などなど、身体の一部を使った慣用句が代表的だ。「胸」や「尻」という言葉が使われているだけで「セクハラ」というのはあまりに無謀だが、なんでもかんでもセクハラに結びつけたがる人たちが一定数いるのが現状かもしれない。
ただ、セクハラだという言いがかりは別として、これらの慣用句が間違って使われたり理解されなかったりすることに関しては、まさにリテラシーの低下によるもの。かつては日常生活の中で誰もが使っていた言葉であり、表現を豊かにするには欠かせないのだが、それがいつしか使われなくなってきているのだろうか。
言葉はなまものだから、時代によって変化していくのはやむを得ないが、表現の幅を狭めていくような変化は寂しいものだ。
「安らかに眠る」赤ちゃん
つい先日、TBS系のニュースサイトが、8月に生まれた辻希美さんの第5子がすやすやと眠る様子を「安らかに眠る」と表現し、読んだ人をギョッとさせた。また、SNSで「夫が無言の帰宅となりました」と報告した投稿に、「夫が無事に帰宅した」と思い込んだユーザーが続出したこともあった。リテラシーが低下した原因は、読書をしなくなったからだとよく言われるが、それだけなのだろうか。勝手な推測だが、例えば高齢者と触れあわなくなったからとか、落語などの演芸番組がテレビからほとんどなくなったからとか、婉曲表現や比喩といった日本語ならではの表現が国語教育から抜け落ちているとか、さまざまな要因があるのではないだろうか。
言葉を簡略化したり、若者が言葉遊びをするのは昔からあること。だが、それ以上に今の時代、「ストレートに言うことがよいことであって、比喩や婉曲は避ける」方向に向かっているとしたら、リテラシーはどんどん低下していくのは当然なのかもしれない。
伝わらなくてモヤモヤ
「接客業ですが、このところ婉曲表現が伝わらなくてモヤモヤしています」カナコさん(38歳)はそう言う。商品の写真をいきなり撮り始めるお客さんに「ご遠慮ください」と言ったところ、「ちょっとだけだから」と言われたのだそう。
「実はそういうお客さまが一人だけではなかったし、私以外のスタッフも同じ経験をしている。どうやらご遠慮くださいというのは、絶対ダメというわけではなく、少しならいいと勘違いされているようなんです」
彼女は苦笑するが、そういった誤解のために現場が苦労しているのは明らかだ。ただ、内々でも伝わらないことは多々あると彼女は続けた。
察しない上司
「上司と出張に行ったときのこと。会議や打ち合わせが続いて、本当に疲れてしまい、どこかで一休みしてお茶でも飲みたくなったんです。でも上司は私の様子にはまったく気づかず、次々と慌ただしく動き回る。でも本当は疲れていたんでしょう、あまり頭が回っていないように見えた。でも、疲れているでしょうとは言いづらい。そこで『喉かわきませんか』と何度か言ったんですが、伝わらない。最後は『一休みしませんか。かえって効率が悪いですよ』と言ったら、『なんだ、休みたかったのか。そういえば疲れたな』と。直接言わないとだめなんだなと思った記憶があります」喉がかわいてないかと問い掛けたのは、もちろん一休みしましょうと言いたいから。それを婉曲に伝えたつもりだったのにとカナコさんは言う。
ところが逆の立場になると、これは「passive aggressive(受動的攻撃性)」と言われる表現らしい。回りくどくて伝わらない表現は、むしろ攻撃性につながるということなのだろう。SNSなどでも誤解から言い争いに発展するケースは少なくない。
日本語の将来は……
とはいえ何でも単刀直入に言うのは、日本の文化には合わないところもある。「写真の件は、最近は『申し訳ありませんが、禁止となっております』ときちんと禁止という言葉を使うことにしました。あとは言い方や口調、表情でやわらげるしかないという結論に達しまして。強い表現を使わざるを得ないときは、笑顔でやんわりと。それにしても難しい時代になったなと思います」
もしかしたら、そのうち「表情と口調を総合的に判断できない人たち」も出てくるのかもしれない。言葉は禁止だとしていたけど顔は笑顔だったから、写真1枚ならいいんじゃない? というように。そうやって想像していくと、日本語の将来を憂えざるを得なくなりそうだ。