大学進学を大反対されて
「物心ついてから、何年かに1回は実母に苦しめられてきた。そう思っています」ユキコさん(40歳)はそう言う。子どものころは母からの過干渉に悩まされた。着たい服も買ってもらえず、いつも母のお仕着せだった。スカートも花柄も明るい色も、母は決して選ばなかった。
「女の子がきれいなものを着たら襲われるというのが母の言い分だったけど、私はかわいがられていないとしか思えなかった。母は弟には流行のかっこいい服を買い与えていたし、よその女の子を見ると『あんたもあのくらいかわいかったらねえ』とよく言っていた。私、母に似てると言われていたから、なんだこの人はといつも思っていました」
父親は単身赴任が多く、母は精神的に不安定だったのかもしれないと思うようになったのは大人になってからだ。
彼女は大学進学を希望していたが、母は大反対だった。父が「受験しなさい」と言ってくれたのでなんとか受験できた。
就職先の会社にまで現れ……
「大学生になってからは、過干渉から逃れるためにアルバイトをして、父に保証人になってもらってアパートを借りました。母には親戚の家の方が大学に近いからそちらに泊まるとうそをついた。罪悪感がありましたが、母にかわいがってもらった記憶もない私が、どうして罪悪感を覚えなければいけないのか、腹立たしかったですね」成人式にはアルバイトで買ったワンピースを着て行った。父はそこまで気づかなかったのだろう。母は無視したとしか思えない。それでもユキコさんは、母の目が届かない世界を楽しむことができたという。
「就職が決まったときも母には内緒にしていたんですが、実際に働き出してから、どうやって調べたのか分かってしまった。母が会社に来たときはびっくりしました。『何かあったの?』と先輩や上司も心配してくれたので、近い人には母のことを話さざるを得なかった。今後もし来ても取り次がないでほしいとも頼みました。とにかく母とは会いたくなかった」
入社して10年目、彼女は同じグループの他社の男性と結婚した。以前から友達だった彼から交際を申し込まれ、一緒に住むようになってから半年で結婚を決めた。
結婚式当日に
結婚式は二人で、親きょうだいだけ呼んで簡素に行おうと決めた。母は娘の夫となる人の訪問すら断った。それでも夫は呼ぼうと言ってくれた。これを機会に母との縁は切ろうとユキコさんは考えたという。「結婚式は神社であげ、その近くの料理屋でランチをとるだけにしました。ところが式が終わって移動するとき、夫の母が『あら、ユキコさん』と小声で言ったんです。私のワンピースの裾が切られていた。母を見ると目も合わせない。でもワンピースが勝手に切れるはずがない。おそらく母だと私は思っています」
その後、母はユキコさんを追い越すように歩きながら「破れたワンピースで来るなんて」とつぶやいた。思わず母に飛びかかろうとしたユキコさんを、義母と夫がなんとか止めた。さすがに父が母の腕をつかんで連れていった。母は宴席に参加せず、父が「ちょっと精神的に不安定になっていて。申し訳ない」と頭を下げてくれた。
「でも父は結局、母を病院に連れて行ったりはしなかった。自分は最後は仕事に逃げるんですよ。そういう意味では、父も母もどっちもどっちというか……。あの時点で、私は親を諦めたんだと思う」
母のことは忘れよう
新居に越したとき、実の両親には住所を知らせなかった。義両親は温かい人たちだ。それだけが救いだった。あれから8年、つい先日、母が急逝した。買い物に出かけ、路上で倒れて帰らぬ人となったのだという。「どうしても足が向かなくて、通夜にも葬式にも行っていません。恨んでるでしょうね。また罪悪感に苛まれているけど、そしてそれは分かりきっていたことだけど、そのときはどうしても母の葬儀に足が向かなかった。母は何のために生きてきたんだろう。今でもそう思います。どうして私をいじめ続けたのか聞けばよかったとも思うけど、聞いたら一生、ひきずりそうだったからこれでよかったんだとも思う」
いずれにしても親に悩まされた今までの自分を、心からかわいそうだと客観的に感じた。義両親は気を遣って、「いつでも孫ちゃんたちの面倒はみるから、あなたもちゃんと休んで。ずっと仕事と家庭で忙しい思いをしているんだから」とメッセージをくれた。夫が、母のことには触れるなと言ってくれているのだろう。
「この家族を大事にしていこう。母のことは忘れよう。そんなふうに思っています。実際には時間がたてばたつほど、いなくなった母に影響されてしまうのかもしれないけど、私も7歳と5歳の子の母親ですから、私のような思いだけはさせたくない」
彼女は言葉を絞り出すようにして、決然と意思表明をした。