「不思議な家族」が越してきた
「同じマンションに越してきた家族、なんだか不思議というか面白いんですよ」そういうのはアヤカさん(43歳)だ。その家族は、夫婦と子どものいる一般的な家庭環境に見えたのだが、アヤカさんがマンションのロビーで知人数名と話していたところ、妻が通りかかり、輪に入ってきた。
「今度越してきた○○です、と名字を名乗ったのはいいんですが、『私のことは名字ではなく、トモコと名前を呼んでください』って。私ははっきりしていていいんじゃないのと思いましたが、彼女が去ってから『ちょっと不思議よね』と他の人たちは言っていました。なんか事情があるのかしらねなんて話まで飛び出して……」
夫を見かけた人もいて、優しそうなイケメンだったと知らされたが、基本的に他人の家のこと、多忙な毎日でうわさ話に興味のないアヤカさんは「ふうん」と受け流した。
夫を「雇い人」と呼ぶ妻
後日、アヤカさんは仕事帰りに偶然、同じ電車に乗っていたらしいトモコさんに、改札を出たところで話しかけられた。「別に詮索する気はなかったんですが、なんとなく互いに自己紹介をするような感じになって。私は共働きで、子どもは10歳と6歳と伝えました。するとトモコさんは、『うちは娘が9歳』と。三人家族なんですねと言ったら、苦笑いしながら『まあね』って。やっぱりなんか事情があるんだろうなと思っていたら、そこへ来合わせた“優しそうなイケメン”がいたんです。トモコさんは『あ、アヤカさん。うちの雇い人です』と。え、夫じゃないのと思っていたら、その男性が『自称、夫で、彼女に言わせれば雇い人です』と名乗って。もうわけが分かりませんよね」
不思議な雰囲気だったので、アヤカさんは「私、スーパーに寄るので、これで」と早々に逃げ出したという。
夫は妻の支配下にあった
その後、うわさではトモコさんは「夫を飼ってる」と言ったり「どうでもいい人」と紹介したりしていたという。9歳の娘も、父親のことを「雇い人さん」と呼んでいるようで、どういうことなのだろうといううわさはさらに乱れ飛んでいた。アヤカさんは、ある日、トモコさん本人から、夫を「雇い人」と紹介した事情を聞かされた。
「あなたなら分かってもらえそうだからと言っていました。なぜ私が選ばれたのかは分かりませんが。トモコさん自身、そういううわさに参っていたみたい。もともとは二人、通常の婚姻関係にあったのだけど、夫が浮気をしたと。トモコさんは離婚を考えたものの、そのころ夫の勤務先が倒産、『このままじゃ慰謝料もとれない』と判断した。夫にどうしたいかと聞くと『行くところもないのでこのまま置いてほしい』という。だけどトモコさんの気持ちとしては納得できない。そこで離婚届は書いたけど、出さないまま『精神的には離婚したつもり』になったんですって」
トモコさんはそれを機に、友人や知人には名字ではなく名前で呼んでもらうよう積極的にアピール。同時に夫を「夫です」と紹介するのをやめた。
「必要があるときは、娘の父親ですということもあるそうですが、たいていは『雇い人』というって。実際、彼女の夫は自宅でWeb関係の仕事をしているものの、生活費は主にトモコさんが担っているらしくて。専業とは言わないけど『彼は主夫というか家政夫というか』と言っていました」
もし自分が夫の浮気を知ったら……
だが、そこでアヤカさんはふと疑問に思った。「逆の立場で考えると、たとえ浮気した事実があっても、女性が夫に『雇い人』とか『家政婦』と言われたら、あまりにも気の毒じゃないですか。離婚していないなら夫という立場は明白なわけだし。それはペナルティなのかしらとアヤカさんに聞いたら、『腹いせでしょうね。彼を傷つけたいから』って。たった一夜のゆきずりの関係で、名前もろくに知らない女性との浮気らしいんですが、彼女の夫、そのころ会社が危機にひんしていることも承知していたようで、ストレスフルになっていたみたい。10日間、毎日、土下座で謝らせたけど、それでも私の気持ちがおさまらなくて、夫だと思わないようにしようという気持ちが強くなって、雇い人だと思えばいいんだという結論に達したようです」
自分だったらどうするだろうとアヤカさんは考えた。一夜の浮気を許せるだろうか。知ってしまったら、今までの信頼関係は一気に崩れる。そこまでは分かる。だが、トモコさんのように「この人は夫ではない、私が雇っていると考えればいいんだ」という結論に、自分は至らないと思ったという。
「そうやってすり替えても気持ちがおさまらないとなれば、どんどん夫を貶める方向に進むと思うんです。それは自分のある種の残虐性みたいなものも引き出しそうで怖い。だったら徹底的に話し合うしかない。それでも納得できなかったら、やはり離婚という選択肢を考えるしかない」
失業した夫を放り出せるほどトモコさんは冷たくはなかった。だが、そのせいで、ネガティブな感情を引きずることになったのではないか。他人の家のことながら、「すごく考えさせられました」とアヤカさんは複雑な表情で言った。