映画『国宝』のキャッチコピーである。上方歌舞伎の世界を舞台に、名門の当主である花井半二郎(渡辺謙)に引き取られた侠客の息子・喜久雄(吉沢亮)と、半二郎の実子である俊介(横浜流星)。このふたりの数十年にわたる生き様と、ジェットコースターのような浮き沈みを描いて、爆発的なヒットとなっている作品だ。原作は、自ら黒衣(くろご)として歌舞伎の世界に入り込んでから執筆したという吉田修一氏の同名小説。だが、ここではあくまでも映画に焦点を当てたい。
筆者は学生時代、演劇を専攻していた。映画の講義が目的だったがひょんなことから歌舞伎に魅せられ、芝居漬けの学生生活を送った。卒論は歌舞伎の戯作者「河竹黙阿弥」だった。昔ほど頻繁ではないが、「芝居見物」はやめられないままだ。あの虚実ない交ぜの倒錯した世界に魅せられたひとりである。
<目次>
※編集部注:以下、ネタバレを含みますのでご注意ください。
評判通り、飽きようもない3時間だが……
3時間におよぶ映画ではあるものの、前評判通り飽きることはない。人間ふたりの数十年の激動の人生を追っているのだから飽きようもない。吉沢亮と横浜流星、ふたりの美しさと1年半にわたる稽古が実を結んだ映像にも文句はない。さりながら……。絶賛の声が多い中、何やら不完全燃焼の気持ちが残った。そもそもなぜ上方歌舞伎? 東京オリンピックが開催された1964年から始まる物語だが、このころの上方歌舞伎は、戦後、けん引者が立て続けに亡くなったこともあって存亡の危機が叫ばれているほどだった。
東京ではすでに歌舞伎座が華やかににぎわっていたが、上方では年に1度公演があるかどうか、しかも客の入りも寂しい状態。上方歌舞伎に希望の光が見えてきたのは、1980年代半ばになってからである。そこに至るまでの上方の歌舞伎役者たちの努力はすさまじいものがあった。
花井半二郎がいくら名門の当主といっても、そのころは上方歌舞伎自体が逼迫(ひっぱく)していたのだ。食えるかどうかの役者も多かったはずだし、上方の役者たちはみなどうしたら歌舞伎を復興できるか必死で考えていただろう。それほど華やかなスポットライトを浴びる場もなかったのではないか。まずはそこに引っかかってしまった。
歌舞伎界で血筋を凌駕する難しさ
部屋子の喜久雄と、半二郎の実子の俊介はどちらも女方として成長していく。だがここでも疑問がひとつ。半二郎の体躯を見れば、おそらく彼は立役。となれば立役の彼が女方の息子たちに稽古をつけるだろうか。踊りは踊りの師匠に習うのが通例だし、舞台用の稽古なら女方に習うはず。一門の縁筋にあたる女方はいなかったのだろうか。それはともかく、ふたりに稽古をつけながら、半二郎は喜久雄の方が自分の子より才能があると気づく。もちろん、そういうことはあるだろうが、「御曹司」の力を舐めてはいけないとも反論したくなる。御曹司には持って生まれた華がある。歌舞伎役者の何がすごいかというと、大げさに言えば生まれたときから楽屋の空気を吸っているということ。体に歌舞伎を染みこませながら成長していくのだ。いくら才能があっても、才能が血筋を凌駕するのは難しいものだと思う。
つまり、喜久雄が俊介より才能があるという根拠に説得力が今ひとつ不足しているのだ。
歌舞伎舞踊ばかりの違和感
これは、映画の中で扱われる作品が歌舞伎舞踊ばかりだからだろう。ふたりは1年半にわたって舞踊の稽古をしてきたから、観客にとっても、ふたりの成長が感じられるところはある。ただ、歌舞伎の演目において舞踊はやはり本筋ではない。芝居、しかも「丸本物(まるほんもの)」と呼ばれる時代物(『仮名手本忠臣蔵』『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』が歌舞伎の三大名作)を演じている描写がまったくないことから、あたかも喜久雄は舞踊だけで評価されているようで今ひとつ納得できない。もちろん映画化にあたって、時代物などはセットが大変だし、役者もたくさん必要だし、舞踊に比べて成長が分かりづらいといった特徴があるのだろう。さらには映画制作が東宝であり、歌舞伎興行を手がけているのは松竹という“大人の事情”もあったのかもしれない。だが、『曽根崎心中』を除いてすべて舞踊だけで構成されているのは違和感があり過ぎた。
嫉妬や憎悪の感情が爆発しない不思議
芸に魅入られ、「日本一の歌舞伎役者になりたい」と願ったふたりの若者が、片方が浮けば片方が沈むという人生を歩みながら、それでも嫉妬や憎悪が表に出てこないのもある意味で不思議だった。「役者というのはわがままなもので、たとえ父親であっても、体調不良で休演と聞くと、よっしゃ、やった、代役が回ってくると思ってしまうものなんです」と、歌舞伎役者から聞いたことがある。わがままというより、それが天性の役者の性(さが)なのだろう。
だからこそ、嫉妬も憎悪もない代わりに、執着や感情の爆発も感じられないふたりの関係にどこか釈然としないものが残る。今どきの観客には、人間の心の深いところでマグマのようにふつふつとわき起こる負の感情は、むしろ嫌がられると判断したのだろうか。
ただ、唯一、喜久雄が感情を露わにした場面があった。喜久雄が半二郎のケガによって代役として大抜てきされたものの、手が震えて顔をする(化粧をする)こともできなくなっているのを見て駆けつけた俊介に、「俊ぼんの血が飲みたい」と絞り出すように言うシーンだ。
過去、歌舞伎を愛して歌舞伎の世界にどっぷり浸かりながら、家や血筋の問題で大きな役がつくこともなく埋もれていった役者がどれほどいるだろうと思いを馳せた。
『曽根崎心中』にもある倒錯した世界観
歌舞伎というのは、ある種の様式美ではあるのだが、そこにハラがなければただの空虚な美で終わってしまう。役のハラを見極めるためには、もとの台本である歌舞伎脚本の筆写本(狂言本、根本などという)を読み込み、人物を理解する。歌舞伎ならではの表現方法はあっても、「演じる」という意味では一般的な芝居と同じだ。絵的にきれいなだけでは客の心は動かせない。この映画がそこまで踏み込んでいないのは、あくまで歌舞伎を舞台にしたふたりの男の物語に終始しているからかもしれないが。
歌舞伎は特殊な芝居だ。例えば、この映画でも扱われている『曽根崎心中』。上方歌舞伎で有名なこの芝居は、中村鴈治郎・扇雀親子の工夫によって人気を博した。血のつながった父と子が恋人同士を演じ、父が息子の足をなで回して心中する覚悟を告げ、息子が父の手をとって花道を駆け抜けて心中へと急ぐのだ。芝居に没入しているときは意識から抜け落ちているが、ふと気付くと、あのふたりは親子なんだよなと思い至る。男が女を演じ、その女は通常の女性よりさらに洗練された美女だったりもする。もともと倒錯した世界観を持っているのだ。
狂気か色気、またはその両方があるか
大人気を呼んだマンガ『昭和元禄落語心中』(雲田はるこ作/講談社)がテレビドラマ化されたことがある(2018年、NHK)。『国宝』を観ながら、ついそのドラマを思い出してしまった。こちらは落語界が舞台なだけに「血筋」は関係ないが、同門のふたりの性格も芸も対照的な男性が、それぞれに落語へのすさまじい情熱と執念を燃やしつつ、周囲の人間関係もからめながら描かれた作品だった。そこには濃すぎる人間関係と、どうにもならないような感情が渦巻いていた。『国宝』にはそれが薄い。師匠と弟子、一門の中の人間関係など、感情も濃くならざるを得ない世界なのに葛藤や激しい感情が見えてこないのはなんとも寂しい気持ちにすらなった。
役者にしろ噺(はなし)家にしろ、表現者には「狂気か色気、またはその両方」が必要だと思う。そのエネルギーが、もともと倒錯した世界である歌舞伎という芝居とあいまって、客を異次元の世界に連れていくのだ。喜久雄と俊介のふたりからは、内在している狂気も色気も感じられない。
ふたりがちらちらと感じていた「歌舞伎の神様」は喜久雄にほほ笑んだ。“国宝”という国からのお墨付きを手にした彼は、果たして心から喜んでいたのだろうか。役者をはじめ、すべての表現者は孤独である。本来、孤高である彼の立ち姿があるはずなのだが、どこか孤高に見えないことも、見終わったこちらにある種の空虚感をもたらしたと言っては言い過ぎだろうか。
<参考>
映画『国宝』公式サイト