
世界で大きな社会問題となっている薬物乱用問題。日本の現状は?(出典:Shutterstock)
2023年6月25日、国連は「2023年版世界薬物報告(World Drug Report 2023)」を発表し、過剰摂取(オーバードーズ)を含む薬物乱用が全世界で急増し、深刻化している現状を伝えました。
報告書によると、2021年に世界の15~64歳のうち薬物の不正使用を行った人は推計2億9600万人。対象薬物として最も多かったのは大麻で、次いでコカインでした。特に問題視されているのは、本来は末期がん患者の痛みを和らげるための医療用麻薬が、本来の目的を外れて使用され、身体的依存に陥った人が過剰摂取によって多数死亡している点です。
拡大する「フェンタニル」汚染 ……著名人の急死も相次ぐアメリカ国内の実態
医療用麻薬の中でも特に乱用が急増しているのが「フェンタニル」という合成麻薬です。麻薬性鎮痛薬としては「モルヒネ」が古くから知られていますが、1960年にベルギーのヤンセン社が合成したフェンタニルは、モルヒネより副作用が少なく、強い鎮痛作用が得られる薬です。日本でも貼付剤を中心に使用され、末期がん患者の緩和ケアに欠かせない正規の医薬品です。ただし、麻薬である以上、不適切な使用を続けることで身体的依存を形成しやすく、近年不正な使用が急増しています。
薬物乱用は、恵まれない貧しい国や地域に多いと思われがちですが、フェンタニルの乱用はむしろ北アメリカや東ヨーロッパの白人層を中心に広がってきました。2016年4月には歌手のプリンスさんが、2017年10月にはロックミュージシャンのトム・ペティさんが急死し、いずれもフェンタニルの過剰摂取が死因とされています。
アメリカ合衆国では以前から麻薬汚染が問題になっていましたが、過剰摂取による死亡が目立つようになったのは1990年頃からです。当初はモルヒネやコデインなどが中心でしたが、2013年頃からフェンタニルをはじめとする合成麻薬の過剰摂取が急増しました。
米中メキシコの麻薬ルート……日本国内でも名古屋に中国組織の拠点か
アメリカでのフェンタニル過剰摂取による死亡者は2020年に5万人を超え、2022年には11万人を超えました。2023~2024年には死亡者数がやや減少したものの、これはフェンタニルの取引価格高騰や品不足により消費自体が減った結果にすぎず、依存に苦しむ人の数は減っていません。さらに2023年6月23日、アメリカ司法省は、中国の化学薬品会社「湖北アマーベル・バイオテク」など4社を、メキシコの麻薬組織にフェンタニル原薬を密売したとして起訴しました。これまで中国やメキシコの関与は疑われてきましたが、アメリカが中国企業を公然と起訴したのは初めてで、米中関係の新たな火種になると懸念されています。
そのような中、6月26日の日本経済新聞は、フェンタニルをアメリカに不正輸出する中国組織が、日本に拠点を作っていた疑いがあると報じました。組織の中心人物が名古屋市に法人を登記し、少なくとも2024年7月まで危険薬物の集配送や資金管理を指示していた可能性が浮上したのです。
本来は有益な薬であるフェンタニル。過剰な恐怖心ではなく、正しく理解を!
こうした報道を見て、「日本もアメリカのようになるのでは」と恐怖を感じる方も多いでしょう。しかし、薬物乱用問題に長年携わってきた私としては、過剰に反応しないことを勧めたいです。名古屋に置かれた拠点については今後の調査報道が待たれますが、密輸や資金管理の指示を行う「隠れ蓑」であり、日本国内で麻薬を製造・流通させていたわけではないと考えられます。また薬物乱用は、インフルエンザや新型コロナウイルスのように知らぬ間に感染するものではなく、本人の意思でコントロールできます。仮に怪しい薬物が流通していても、それに手を出さなければ問題ないのです。大事なのは一人ひとりが「薬物乱用がなぜいけないのか」を本質的に理解し、子どもに対しては大人がしっかりと教育していくことです。
最近、「フェンタニル」という言葉が注目を集める中で、誤った情報を広める動画や記事が散見されます。もしそれが、薬物問題の本質を理解せず、単なる話題作りで発信されているのなら、許しがたい行為です。
最後に強調したいのは、フェンタニルは「本来は有益な正規の医薬品」であるということです。今この瞬間も、日本のどこかの病院で適切に使用され、末期がん患者を苦痛から救っています。正しく使えば何の問題もない薬を、乱用によって社会問題化し、不必要に制限されるようなことがあれば、本当に必要な患者を救えなくなってしまいます。「フェンタニルは危険な薬」という偏った見方をしすぎることが、むしろ医療の妨げになり得るのです。
警戒すべきは薬そのものではなく、それを乱用してしまう人の「心」の問題であることに、多くの人が気付いてほしいと思います。